2023.09.29
レビュー
ポスター画家といえばこの名前を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
トゥールーズ=ロートレック。
19世紀末、「ベル・エポック」と呼ばれる豊かで華やかなフランスで活躍。
商業広告としてしか見なされていなかった「ポスター」という媒体を、
芸術の域まで引き上げたと称される画家です。
彼の本名はアンリ=マリ=レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック。
1864年11月24日、フランスのアルビ。南仏で最も古いとされる、由緒正しい名家の長男として生を受けました。父親は伯爵の称号を持っており、この時代の画家としては珍しい出自といえます。
明るく社交的な性格であったロートレックは「小さな宝石」と周囲から呼ばれるほど愛され、名家の後継ぎ、および乗馬や狩猟の相手として、父親から大きな期待を寄せられていました。少年期からロートレックはスケッチなどの絵を書いていましたが、あくまで趣味の範囲であり、それはまだ、人生の主たる目的ではなかったのです。
そんな彼をある悲劇が襲いました。椅子からの転落による骨折を境に、両脚の成長が止まってしまったのです。
両親の血縁結婚による遺伝子上の疾病と考えられていますが、乗馬や狩猟に付き合えなくなったロートレックを、父は遠ざけてしまいます。この態度は終生変わることがなく、息子が画家として成功したのちも、最後までその功績を認めることはありませんでした。
健康不安により学校を辞めていたロートレックは、絵の道を本格的に目指すことになります。親類の伝手で師事した動物画家プランストーの下で、ロートレックは早くから才能を発揮しました。
脚を悪くした彼が好んで描いたのは、かつて自分が乗っていた「馬」でした。
実際に馬を飼っており、その構造をよく知っていたロートレックは、馬に乗る父親を描いた《アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵》など、多くの作品を残しています。
苦境に生きる人々に対する視線を得たロートレックは、新たな題材を得ることになります。
1889年のモンマルトル、ブルジョワたちが暮らす住宅街と下町との境目に、ダンスホール「ムーラン・ルージュ」がオープンし、店からポスター制作の依頼を受けたのです。
1891年発表された《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》は、彼の傑作の一つといわれています。
画面中央、赤と白の衣装をつけ、脚を高く上げて踊るラ・グーリュ、画面手前、躍動感のあるシルエットのみが描かれたパートナーの男性、フロアを囲む観客の黒い影、流線型の黄色い円で表現された照明。
限られた色彩と大胆な構図はこれまでに無かったものであり、ポスターを観た人々に鮮烈な印象を与え、一晩で街中の大評判となりました。
このように画家としての地位を確立したロートレックでしたが、居心地の良い歓楽街に足しげく通い、一時期は娼館で暮らすような生活を続けていました。その中で、娼婦たちの日常を知ることになった彼は、次の題材として、そこで生きる彼女たちを選んだのです。
《ムーラン街のサロンにて》では、中央に座る女性の物憂げな姿が印象的です。画面のこちら側を見つめる彼女は何かを諦めたように、共感を求めるように微笑んでいて、複雑な内面をもつ一人の人間として描かれています。
1896年、娼婦たちの姿を描いた石版画集『彼女たち』を出版しましたが、売れっ子であった彼の作品集としては、売り上げはさほど伸びなかったとみられています。内容が、好奇心を刺激するようなセンセーショナルなものではなく、身づくろいをする彼女たちの現実的な姿を、落ち着いた色彩で表現したものだったからかもしれません。
これらの作品に共通しているのは、彼女たちに対する共感です。
人目を引く絵を描く技術を十分に持っていた彼ですが、彼女たちを描く筆致は落ち着いており、派手な効果を狙うことはありませんでした。彼が誇張して描くのは、自分自身や自分より高い位置にいると考えられる対象であり、苦境に生きる人たちに対しては、常に真摯な視線で向き合い続けました。
これらの活動と並行し、ロートレックはパリの劇場にもたびたび足を運び、劇場空間という非日常的な舞台に創作意欲を刺激されていました。これらを描いた作品では、インパクトのある画面構成と色彩という、彼の魅力を味わうことができます。
中でも、女優マルセル・ランデールをモデルとしたリトグラフ《マルセル・ランデール嬢、胸像》は、モデルの胸部から上のみにフォーカスし、多色刷り・ぼかし・地の白を生かすなど、さまざまな版画技術をもって制作された傑作です。
発表された当時は一部から批判も浴びましたが、女優の一瞬の表情を見事に切り取っており、現在ではロートレックの名作の一つだと考えられています。
人気画家としてパリで活躍した一方、アブサンの多量摂取など、長年にわたる享楽的な生活は、ロートレックの身体や精神を確実に蝕んでいました。
1899年、アルコール中毒による妄想に取りつかれ、奇行を繰り返す彼を見かねた友人によって、強制的に入院させられることになります。
療養中も制作を続け、一時は退院するまでに回復するも再び酒に手を出してしまい、この生活から抜け出すことはできませんでした。
平坦な画面構成、暗い色彩など、彼本来の持ち味とは違う作品《医学部の試験》を絶筆とし、1901年9月9日、37歳の短い生涯を終えました。
短い活動期間で後世に続く作品を残したロートレックですが、「人間は醜いが、人生は美しい」という言葉を残しています。
名家の長男に生まれながら病によって父親からの愛情を理不尽に失い、不自由な脚のために上流社会で生きる困難を味わっていたロートレックは、華やかな社会に集う人々の裏の面を、早くから感じとっていたのかもしれません。
自らに成功をもたらした夜のモンマルトルに魅力を感じながらも、その虚飾性を冷静に見つめる視線を失うことはありませんでした。
その一方で、彼は殆どの作品の中で、人間を描き続けました。その内面を描いているものも、少なくありません。
母親からは深い愛情を得ており、社交的な性格や実力により、多くの知己を得てもいました。母親や友人などの身近な人々、自分が共感する人物を描くときの姿勢は、いつも真剣なものでした。
貴族という出自を持ちながら、苦界に生きる人々もまた自分と同じ人間なのだと捉えることができる感性は、彼独自のものと思われます。
光だけでも影だけでもない世界を鋭い観察眼で見つめながら、卓越したセンスで描き続けたロートレックの作品は、今もなお、人々の心を捕え続けています。