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2023.10.20

レビュー

図録 生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。

 

 

 

 

やわらかな色彩で描かれた、色とりどりの花、あどけない赤ちゃんや子どもたち…

絵本や教科書、ポスターなどで、誰もが一度はこの絵を見たことがあるでしょう。

でも、この絵を描いた人がどんな人か知っていますか?

 

 

 

 

子どもたちの平和と幸せを願って描き続けた画家、いわさきちひろ。

子どもたちにそそがれる彼女の温かいまなざしの陰には、彼女自身の波乱に富んだ人生の歓びや哀しみがあります。

 

 

 

 

没後50年を目の前にした今なお、多くの人に愛され続ける作品を描いたちひろの人生を、

彼女の残した言葉に触れながら紐解いていきましょう。

 

 

 

 

 


 

恵まれた子ども時代、そして苦難の日々

いわさきちひろの本名は松本知弘(旧姓・岩崎)。

いわさきちひろは、大正7年(1918)、福井県武生で生まれ、東京で育ちました。三人姉妹の長女として恵まれた家庭で少女時代を過ごしました。

 

 

 

幼いころから絵を見るのも描くのも大好きで、絵雑誌「コドモノクニ」に心をときめかせ、地面に蝋石で、曇った窓ガラスにも熱心に絵を描いていました。そして、女学校2年(14歳)のとき、その才能が認められ、洋画家・岡田三郎助のもとで絵描きになるべく、精力的にデッサンや油絵を学んでいます。

 

 

 

 

しかし、ここからちひろの苦難が始まります。そのまま大好きな絵の道に進みたいと思っていたちひろでしたが、両親の反対にあい、画家の夢を諦めるほかありませんでした。

その後は、20歳で親の決めた望まぬ結婚、なれない地での身も心も結ばれない結婚生活、夫との不幸な形での死別…。そして戦争によって家も失い、一昼夜、火の海を逃げまどいました。

バツイチ・家なし・職もなし。まさに人生のどん底です。

 

 

 

 

「青春時代のあの若々しい希望を何もかも打ち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」
(インタビュー記事より・掲載誌不明 1972年)

 

 

 

 


 

画家としての自立

 

「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢(ろう)に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動を受けました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました」
(「人生手帳」1972年12月号 文理書院)

 

 

 

戦後、ちひろの情熱はスケッチと読書に向けられました。

「草穂」と題した当時の日記には、聖戦と信じた戦争に敗れ、世の中の価値観が180度変わるなか、疎開先(長野県・松本市)のなれない田舎暮らしと、一度は諦めた絵への思い、都会への郷愁で、日々揺れ動く彼女の心情が記されています。田舎での暮らしの中でちひろはこれからの生き方を模索し、時には感傷に浸りながら、どん底からもう一度立ち上がる決意を固めていきました。

「私は結婚なんて絶対しないわ。私は絵を描くの。私はもう絵と結婚したんだもの……」
(ちひろのことば 1940年代後半)

 

 

 

 

ちひろは昭和21年(1946)、日本共産党の演説に深く感銘を受け、入党しました。そして同じ年の5月、ちひろは東京へひとり旅立ちました。日本共産党宣伝部の芸術学校で絵を学ぶために。

戦後の混乱が続く東京での新しい生活、住まいは神田にある叔母の家の屋根裏部屋。芸術学校で授業を受けるのは夜で、昼間は画才をかわれて雇われた人民新聞社の記者として働き、同時に洋画家・丸木俊に師事してデッサンを学びました。だんだんと絵の仕事を手がけるようになり、アンデルセンの物語をもとにした紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心し、子どもを題材とする童画家の道を駆け出しました。

 

 

 

 


 

最愛の人との出会い、親子の時間

画家としてのキャリアをスタートさせたちひろは、昭和24年(1949)、31歳の時に政治思想をともにする7歳半年下の松本善明と出会い、恋に落ち、四面楚歌のなかで2度目の結婚式をあげました。もう絶対に結婚はしないと誓っていたちひろの最愛の人と生きる決意はどれほど深いものだったのでしょうか。

 

 

 

翌年、男の子をさずかります。しかし、弁護士を目指す夫と一家の生活を絵筆一本で支えなければならない過酷な日々…。子育てに仕事に…そんな生活を続けられないでしょう。やむを得ず愛する息子を長野の両親のもとに預けることになりました。

この時ちひろは片道10時間かけて長野まで頻繁に会いに通ったそうです。抱きしめて乳をふくませ、スケッチをする以上にしっかりと息子の姿を心に焼き付ける。別れのつらさをこらえて東京に戻り、スケッチを机の前に張って、懸命に働きました。その後2年ほどたってようやく家族そろって生活ができるようになりました。

 

 

 

 

見るだけでなく、ぬくもりや確かな重さを感じられるわが子というモデルを得て、ちひろは月齢や年齢の違う子どもの姿を描き分けられるまでになりました。

 

「その辺に赤ちゃんなんかいると自分の上に置いておきたい。親はどうしてもさわらずにはいられないものじゃないかしら。私はさわって育てた。小さい子どもがきゅっとさわるでしょ、あの握力の強さはとてもうれしいですね。あんなぽちゃぽちゃの手からあの強さが出てくるんですから。」
(「教育評論」1972年11月号 日本教職員組合)

 

 

 

 


 

芸術家としてのあくなき挑戦

 

さて、ちひろは水彩画家として有名ですが、実は46歳ごろまでは主に油絵を描いてきました。

最初に手がけていたのは広告ポスターや雑誌、教科書の表紙など。師匠である丸木俊の作風が洋画家らしいはっきりとした色彩で写実よりの絵だったので、師匠の影響を受けたような作風だったんですね。

 

 

 

そこからちひろが独自の作風を模索するようになったのが昭和38年(1963)のことでした。時代は高度成長期に歩みを進め、ちひろは絵本の挿絵などで人気の童画家になっていました。その一方、ちひろの作風は師の作風よりかわいらしく「少女趣味だ」「かわいらしすぎる」「リアルな子どもの姿を描くべき」などの批判があり、彼女自身もそのことに悩んでいたそうです。

 

 

 

 

「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたいと、ねがいつづけてきた私は、自分の絵に、もっと「ドロ臭さ」がなければいけないのではないか――と、ずいぶん悩んできたものでした。ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかもしれない。
その点、私の描く子どもは、いつも夢のようなあまさがただようのです。実際、私にはどんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。」
(「子どものしあわせ」1963年3,4月合併号 草土文化)

 

 

 

 

そのころ出会ったのが出版社「草土文化」社長の田辺徹です。

「子どもが題材なら自由に描いていい」と、月刊誌「子どものしあわせ」の表紙絵を依頼してきました。この依頼にちひろはそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をしました。『子ども』(1962年)を最後に油彩画をやめて、以降はもっぱら水彩画に専念することにしました。また、翌年に師・丸木俊が共産党から除名されたことを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始めます。顔の輪郭線を描かなかったり、パステルを大胆に使ったりするなど、「子どものしあわせ」は彼女にとっての実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられています。

 

 

 

 

また、ちひろはこれまでにない、まったく新しい絵本作りに挑戦しました。従来の物語中心の絵本とは異なる、絵を中心に展開する絵本。至光社の編集者・武市八十雄とともに実験を重ね、とうとう『あめのひのおるすばん』(1968年)を作り上げたのを機に、絵本作家としての新しい世界へと踏み出しました。

 

 

 

 


 

世界中の子供みんなに  平和  としあわせを

子どもたちの平和としあわせを何より願っていたちひろは、激化するベトナム戦争に心を痛め、昭和48年(1972)から絵本『戦火のなかの子どもたち』の制作をはじめました。生涯最後の絵本となるこの作品を、ちひろは体調を崩し入退院を繰り返しながらも、1年半を費やして描き上げました。

 

 

 

ひとりの母親であり、自らも戦争体験をもつちひろにとって、子どもたちの命を奪う戦争は許せることではありません。彼女の作品の大部分を占める愛情に包まれた子どもの絵と戦火にさらされた子どもの絵は対照的ですが、どちらの絵にも子どもの平和としあわせへの強い願いが込められています。

この絵本が完成してまもなく肝臓がんが発覚。息子の結婚式を入院先で見届け、55歳の若さでこの世を去りました。

 

 

 


 

まとめ

どこまでも優しくて、どこまでもやわらかい。そんな作品からは想像できないほど朝ドラ並みの激動の生涯を送ったいわさきちひろ。「まだ、死ねない。もっと描きたい。」が最期のことばだったといいます。

 

 

 

ちひろが残した作品は9500点余り。いろいろな場所でその作品をよく見ますが、どれも一見して「いわさきちひろの絵だ!」ってすぐわかるんですよね。一見シンプルなこの絵にどんな秘密が隠されているのか……。気になった方は、まずは当店で取り扱っているいわさきちひろに関する図録をぜひ手に取ってみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!