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2023.12.15

レビュー

図録 トーベ・ヤンソン展 ~ムーミンと生きる~

 

 

ずんぐりむっくりとしたフォルムが愛らしいキャラクター、ムーミン。北欧の厳しくも美しい自然の中で生きるムーミン一家とその仲間たちは、小説や漫画、アニメ、グッズなどさまざまなかたちで親しまれています。

 

 

そんなムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン

みなさんは彼女についてどれくらい知っていますか?

 

トーベはフィンランドを代表する芸術家であり、イラストレーター、小説家、風刺画家、デザイナーと実にさまざまな分野で活躍した女性でした。

 

 

 


 

芸術家への道

 

私たちのトーベはきっと偉大な芸術家になると思うんだ。

とてつもなく偉大な!

(トーベの父・ヴィクトル)

 

トーベ・マリカ・ヤンソンは1914年8月、フィンランドの首都ヘルシンキで、彫刻家の父とグラフィックデザイナーの母の長女として生まれました。弟は2人、芸術一家として息を吸うように芸術に親しんで育ちました。なんと1歳のときからペンを持ち、絵を描く作業に熱中していたそうです。

 

 

芸術家としてのキャリアのスタートはわずか15歳、雑誌やポストカードのイラストレーターとしてです。

「画家になりたい」そんな強い思いを持っていたトーベは、プロとしての収入を得ながら、10代後半にはストックホルムで商業デザインを、次いでヘルシンキで美術を学び、20代のころは奨学金をもらっては、フランスやイタリアなどの諸外国を旅しながら絵画技術を習得しました。

 

 

帰国後は定期的に油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフレスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎をはじめ、数多くの公共建築に壁画を描くなど、画家としての地位を築いて行きました。

 

 


 

ムーミンとの出会い

 

レンジ台のうしろには、ムーミントロールといういきものがいるぞ。

こいつらは首筋に息を吹きかけるんだ。

(トーベの叔父・エイナル)

 

 

トーベとムーミンの出会いには、ふたつの興味深い逸話があります。

ひとつはスウェーデン留学中に寄宿先のエイナルおじさんから聞いた「ムーミントロール」というおばけの話。夜中に台所でつまみ食いしていた姪を軽くとがめたんですね。それは多感な少女に鮮烈な印象を与えたらしく、日記に彼女の想像したムーミントロールの絵が描かれています。

 

 

もうひとつが弟のペル・ウーロンに議論で言い負かされた腹いせに別荘のトイレに描いた、怒った顔をした鼻の大きな生きもの「スノーク」です。実はムーミンのあのむっくりした部分、ほっぺでも上唇でもなく“鼻”だったんですね…知っていましたか?

 

トーベが10代の頃に出会ったこの鼻の大きな生きものは、10代後半から20代ごろに描いた水彩画に黒い姿で登場するようになります。やがてその体の色を白に変えて、トーベや母シグネが表紙や挿絵を描いた政治風刺雑誌「ガルム」のイラストの片隅にも現れるようになりました。第二次世界大戦のさなかに現れた、いつでも怒っているか困っている生きものは、まるで戦争に強く反対していたトーベの分身であるかのようでした。

 

 

戦争への不安感から絵画制作が行き詰ったトーベは、絵筆からペンに持ち替え、この小さないきもの「ムーミントロール」の物語をひっそりと書き始めたんです。

 

 


 

ムーミン物語のはじまり

 

とちゅうまで書いた物語は、1945年になるまで、

そのままほったらかしになっていました。

ところが、ある友だちがこういったのです。

これは子どもの本になるかもしれない。

書きあげて、挿絵をつければ出版できるかもしれないよ、と。

(中略)とにかく、これはわたしがはじめて書いた、

ハッピーエンドのお話なのです!

(トーベ・ヤンソン)

 

 

1945年、ようやく戦争が終わりました。戦時中に書き始めたムーミンの物語第1作となる『小さなトロールと大きな洪水』が出版されました。幼い子どもであるムーミンが、母親と大きな森の中を彷徨いながら失踪してしまった父親を探す旅の物語。たった48ページしかない粗末な装丁の小冊子は、本屋ではなく新聞スタンドにひっそりと並べられました。ただし、その時には注目を集めることはありませんでしたが…

 

 

しかし、自身の内面世界が強く反映されたムーミンの物語を紡ぐことは、トーベにとってある種の癒しにもなっていました。トーベは画家として作品制作を続けつつ、物語を書き続けました。翌年の1946年に第2作『ムーミン谷の彗星』、48年には第3作『楽しいムーミン一家』が刊行されます。

 

 

 


 

世界へ羽ばたくムーミン

 

ムーミンたちが暮らす世界の夏を描いた『たのしいムーミン一家』。

この物語が児童文学大国であるイギリスで思いがけない大ヒット!1954年にはロンドンの夕刊紙「イヴニング・ニューズ」でコミック連載が始まると、ムーミンはたちまち大人気となり、世界各国にムーミンの漫画が配信されるようになります。

 

 

世界40ヵ国以上、2000万人以上の読者が毎日ムーミンを目にすることになり、トーベ・ヤンソンの名は世界中に知られるようになりました。

ほぼ同じ頃、さまざまな企業がトーベにムーミンの商品化を持ちかけ、1950年代初めにはムーミングッズの大量生産が始まりました。陶器にファブリック、衣類、ハンカチ、イースターカードなどさまざまな商品が販売されました。こうしたムーミングッズは現代に至るまで数多く生み出され、ムーミンは世界的なブランドへと成長し、愛され続けています。

 

 

 


 

ムーミン谷の「冬」、そして再出発

 

義務感と意欲の間でどう折り合いをつけるか。

これは絶えず私の課題であり続けた。

でも少しずつ私は私らしく、私なりの解決に辿り着きつつある。

意欲だけが、願いや喜びこそが自分であり、

義務でやらされたものは何ひとつとして、

自分にも周囲にも喜びをもたらさない

(トーベ・ヤンソン)

 

 

世界的な人気を得るようになったムーミン。トーベは40代で児童文学作家として不動の地位を手にしましたが、同時に、その大ヒットによってムーミン作品を大量に生産しなければならない「質より量」を求められることに苦心していきます。加熱したブームは、画家である彼女から創作の時間を奪い、最後にはムーミンを憎んでしまうようにさえなってしまったとも。

 

 

そんな彼女を救ったのが後半生のパートナーとなるグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラです。彼女に勧められてトーベはこのころの思いを、冬眠するムーミントロールが、まったく見知らぬ世界である「冬」とはじめて向き合うという物語に託しました。

初めてみる雪、ひどい寒さと暗さ、でもムーミンママとムーミンパパは眠りに落ちたまま…ムーミンは未知の世界に苛立ち、戸惑いながらも、次第にその魅力に気付いていきます。ガイド役のおしゃまさん(トゥーリッキがモデル)と過ごす日々はムーミンをゆっくり成長させていきました。そうして冬の大騒動が過ぎ、ゆっくりと春がムーミン谷に訪れました。

 

 

こうして作風を一新して生まれたのが第6作『ムーミン谷の冬』です。内容も挿絵もこれまでにない意欲作としてムーミン・シリーズ後半への転機となり、における最高の栄誉とされる国際アンデルセン賞の受賞(1966年)にも結び付いていきました。

 

 

その後、第7作『ムーミン谷の仲間たち』、第8作『ムーミンパパ海へいく』、第9作『ムーミン谷の十一月』と発表し、ムーミンの小説シリーズは1970年、ついに完結しました。

しかし、トーベは、2001年に86歳で亡くなるまで筆を置くことなく制作を続けました。静物画、風景画、肖像画、風刺画、挿絵、さらに小説、絵本、コミックス、オペラ台本に壁画やステンドグラスなどなど。そのレパートリーは量とともに増えていき、私たちの想像の及ばない広がりを見せてくれました。

 

 

 


 

おわりに

 

 

ムーミン谷では、繊細で傷つきやすいムーミン、自由と孤独を愛するスナフキン、自分たちだけに通じる秘密の言葉を操る双子のトフスランとビフスラン…個性や姿形、種族すらもそれぞれ異なる仲間たちが、違いを受け入れ、互いを尊重しながら暮らしています。

ムーミンの世界で描かれる平等や連帯、誰でもウェルカム!という包括的で多様な世界観はトーベの思想に深く根ざしたものです。作者自身の仕事や関心、交友関係の推移とも重なり、全9冊のムーミン・シリーズはトーベの人生を映す物語としても読み取れます。

そんなムーミン・シリーズのファンである方はもちろん、トーベ・ヤンソンのことをもっと知りたくなった、という方は、まずは当店で取り扱っているトーベ・ヤンソンに関する図録をぜひ手に取ってみてください。ちなみに映画『TOVE/トーベ』(2020年)と合わせて読むのもおすすめです!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!