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2025.11.23

レビュー

図録 ガブリエル・シャネル展 〈GABRIELLE CHANEL MANIFESTE DE MODE 〉

 

女性の生き方を変えたデザイナー シャネル

 

シャネルといえば、「高価なラグジュアリーブランド」というイメージをもたれているかもしれません。

しかしそれは、ブランドの一側面にすぎません。

創業者であるシャネルは、何を目指して服やバッグを作り続けたのか。

彼女が生み出した作品の数々を、その人生とともに振り返っていきましょう。

 


 

<意外な出自>

 

1883年8月19日。フランス西部のソーミュールに生まれたガブリエル・シャネル。

行商人の父と病弱な母をもち、一家の暮らしぶりは不安定なものでした。

シャネルが12歳のときに母が亡くなると、育児の意志を持たなかった父により、孤児院に入れられました。この時代については、彼女は多くを語っていません。

18歳になったシャネルは恵まれた容姿を生かしバーの歌姫を目指しましたが、その道の険しさを悟ります。

そんな中、彼女が働くブティックに来店したブルジョワ階級の男性、エチエンヌ・バルサンと知り合います。

シャネルは彼の恋人となり、彼の所有する館で暮らすようになりました。上流階級に入ったことで、食べるために働く必要がなくなったのです。

 


 

<ファッション業界へ>

 

その後、シャネルはバルサンと共に乗馬やヨットを楽しみ、活動的に暮らします。これは、当時の女性としてはかなり珍しいことでした。

自然と、スーツや乗馬ズボンといった男性服を着るようになり、その機能性や動きやすさに気が付きます。

また、周囲の女性は飾りのたくさんついた帽子を被っていましたが、シャネルはそれを好まず、シンプルな帽子を自作していました。

それに目をつけた女友達から制作を依頼されるうち、自分の道を見つけます。

1910年。バルサンの支援を得て、カンボン通り21番地に帽子店「シャネル モード」をオープンしたのです。

商品は飛ぶように売れ、店は順調な滑り出しをみせましたが、バルサンは一時的な遊びのように捉えていたようです。

そんな中、シャネルはビジネスマンのアーサー・カペルと出会います。

自身も叩き上げで上り詰めた銀行家であったカペルは彼女の才能を認め、意気投合。

彼からの資金援助を受け、シャネルはリゾート地ドーヴィルに二号店を出店しました。

潮風が吹く海辺でもコルセットを締め、装飾的な服装をしていた女性たちに、着心地のよいセーラーシャツやパンツルックを提案します。これもまた評判を呼びました。

さらに、シャネルの快進撃は続きます。

次いで、高級保養地ビアリッツに開いた三号店では客層に合わせ、オートクチュールを取り扱うようになりました。

着心地がよく、それでいてモダンなシャネルの服はファッション誌に取り上げられ、王侯貴族も顧客に抱えるなど、事業はどんどん拡大していきました。

 


 

<ライフスタイルを変えた服>

 

ファッション界に衝撃を与えたのが、ジャージー素材のワンピースです。

第一次世界大戦中の物資不足により生地が手に入れにくい中でシャネルがたどり着いたのが、安価かつ伸縮性に富むジャージー素材でした。

それまで男性の下着素材に使われていた生地は、軽く、動きやすく、それでいてエレガントなワンピースに生まれ変わります。

足さばきのよいスカート丈やポケットなど、動きやすさや実用性に配慮され、何より「コルセットを着ける必要がない服」は、女性が潜在的に望んでいたものだったのでしょう。

 


 

<本当の豊かさ>

 

1920年代。成功した経営者の一員となったシャネルは各国の王侯貴族と付き合うようになりました。

そのうちの一人、ロシアの亡命貴族ディミトリ公爵と親しくなるうちに、二つのアイデアを得ます。

一つはジュエリーです。

当時、アクセサリーは経済力をアピールするための存在だと考えられていましたが、シャネルは「アクセサリーは楽しむために身につけるものだ」と反旗を翻します。

公爵との生活で「本当に豊かな者はわざわざ経済力をアピールする必要などない」という哲学を得ていたのです。

公爵から贈られたジュエリーにインスパイアされたシャネルが提案したのは、色鮮やかなコスチュームジュエリーでした。

その大きさから一目で「人工」と分かる大ぶりな宝石をあえて使用し、異国情緒あふれる意匠でデザインしたアクセサリーを、手頃な値段で人々に提供します。

もう一つは香水です。

香水文化に造詣がある公爵から調香師エルネスト・ポーを紹介されたシャネルは、香水の開発に乗り出します。

完成した商品の名前は「No.5」。

ポーが作ったサンプル名そのものでしたが、これまでにない無機質なボトルデザインと相まって、大変な人気を博します。

また、香水は大量生産が可能なことから利ざやが高く、それがもたらす莫大な富は、シャネルを世界でも揺るぎないトップブランドに押し上げました。

 


 

<シンプル・イズ・ベスト>

 

1926年。シャネルはまたも人々を驚かせます。

彼女が発表したのは、黒一色のシンプルなドレス。現在では「リトルブラックドレス」と呼ばれています。

当時、黒は「喪服」の色とされ、日常的に黒い服を着ることは避けられていました。

しかしシャネルは、「黒こそ女性を最も美しく見せる色だ」と考えたのです。

当初は反対意見も見られたものの、黒という色にはジュエリーが映え、汚れが目立たず、体が引き締まって見えるなど、さまざまな利点がありました。

リトルブラックドレスは女優たちに愛用されるようになり、それに憧れる世の女性たちに広まってゆきます。

装飾が少ないことから量産が可能であり、数々のコピー品が出回るようになりましたが、シャネルは「真似されるのは良い作品である証拠だ」と容認する姿勢をみせました。

庶民の手に届くドレスは、永遠の定番となっていったのです。

 


 

<自由を与えたバッグ>

 

それまで女性のバッグといえば、手のひらでしっかり持つ形、つまり、片手が塞がってしまうハンドバッグが主流でした。

そこでシャネルは1929年、ショルダーバッグ「マトラッセ」を発表します。

色は黒。シャネルが最も好んだ色です。

しっかりしたマチがあるため、財布、車のキーなど、男性が持つことが主であったアイテムも、無理なく収納できます。

そして何より、肩にかけられるのが大きな特徴です。このバッグにより、両手を自由に使えるスタイルを女性に提供しました。

ショルダー部分に使われたチェーンは、皮のようにすり減ることがない、という実用性から選ばれたものです。

内布の赤は、ものを見つけやすくするため。

口紅を入れる仕切り、開閉しやすい蓋など、機能性がつめこまれた革新的なバッグでした。

フラップ部分に輝くのは、ココ・シャネルのイニシャルを背面同士で合わせたブランドマーク。

この名品で、シャネルは「服飾界の女帝」としてファッション界に君臨することになります。

 


 

<初めてのスランプ>

 

ほぼ一人勝ちの状態であったシャネルですが、1930年代に入ると、愉快でない経験が増えてゆきました。

まず彼女の頭を悩ませたのが、従業員によるストライキです。

有休の取得、長時間労働の禁止など、要求は全うなものでしたが、自身は納得いくまで働くことを厭わないシャネルにとっては、全く受け入れ難いものでした。

次いで、ファッション界には新しい才能が台頭するようになります。

エルザ・スキャパレッリによるアバンギャルドな服が世間に受け入れられ、シンプルを最上と考えるシャネルは理解に苦しみます

1939年には第ニ次世界大戦が勃発。ドイツ人と親しくしていたシャネルにも、スパイ容疑がかけられます。

様々な要因が重なった状況にシャネルは「服どころではない」という言葉を残し、大半の店を閉めると自身はスイスに渡り、人生において初めて、表舞台から姿を消してしまいました。

 


 

<15年ぶりの復活>

 

その後、長きにわたり隠遁生活を送っていたシャネルですが、そんな彼女の心に火をつけたのが、終戦後に世間を席巻した「ニュールック」です。

クリスチャン・ディオールが発表した、細いウエストからふわりと広がるAラインのスカートが印象的なシルエットは、戦争から解放された人々の心を掴みました。

優雅さを女性に求める動きが復活しかける世間に、シャネルは「あんな服を着てどう動くのか」と反発します。

1954年。ついにシャネルは静かな生活を破り、齢70にしてファッション業界に復帰しました。

まず提案したのが、シャネルスーツ。

スーツに使われたループツイードは伸縮性があり、軽く、実用性の高い生地です。

紳士服からインスピレーションを受けたものでしたが、シャネルはそれに華やかな色糸やラメを織り込むことで、よりファッショナブルなものに進化させました。

形はジャケットとスカートに分かれており、スカート丈は膝が隠れる程度。腕を上げられ、歩きやすい。男性の「スーツ」を女性のものとして落とし込んだのです。

ジャケット裾には極細のチェーンが縫い込まれ、裾がめくれるのを防止するだけでなく、美しいラインを作り出します。

実用性とエレガンスを両立させたスタイルは海を越え、自由の国アメリカで受け入れられました。

外で働く女性や政治家の妻たちなど、表舞台に立つ女性たちがシャネルスーツを求めました。

特に、ケネディ大統領の妻、ジャクリーンが好んでいたこともよく知られています。

 


 

<女性のための靴>

 

1957年、シャネルは最後の定番、靴を世の中に送り出しました。

アッパー部分にベージュ、トウ部分に黒を配し、踵を斜めに渡るストラップ(スリングバッグ)が特徴的なパンプスです。

淡いトーンのベージュは肌馴染みがよく、脚を長く見せ、つま先部分のブラックは足を小さく見せる効果があります。

このデザインも、見た目だけのものではありません。

消耗しやすいつま先部分に、アッパーと別の皮を使用することで、靴を長持ちさせることができます。

また、伸縮性の高いスリングバッグ、歩きやすい5センチのスクエアトゥなど、彼女らしい実用性が備わった作品です。

「これ一足さえあれば、どんなオケージョンにも対応できる」という触れ込みは人々の心を動かし、「現代におけるガラスの靴」と呼ばれることもありました。

1897年には女性用腕時計「プルミエール」を発表するなど、精力的に活動し続けたシャネルですが、1971年1月10日、ホテルリッツの自室で急死。87年の生涯を終えました。

亡くなる前日までコレクションの準備に勤しみ、最後までデザイナーとしての人生を全うしたのです。

 


 

<彼女が変えたもの>

 

シャネルは実用性とエレガントの両立を目指したデザイナーです。

それまで、上流階級出身の男性デザイナーが主流であったファッション業界。

そこから生まれる作品は「女性にはこうあって欲しい」という理想が投影されたものだったのかもしれません。

それに対し、シャネルは自身がデザインした服を、実際に身につけて動くことができました。

「私はこうありたい」という日常的なスタイルを、女性に提案することができたのです。

動きやすい服、両手を自由に動かせるバッグ、歩きやすい靴。

それらは女性の見た目だけではなく、行動や考え方、ひいては社会進出などの生き方にまで影響を与えた、偉大な発明といえるでしょう。

ジャージー素材や黒のドレス、コスチュームジュエリーといったアイテムも、彼女だからこそ、常識にとらわれないアイデアを実現できたのかもしれません。

女性であること、専門教育を受けていないこと。

当時としては不利になりかねない条件をむしろ生かし、ファッションが生き方を支えるものであることを証明した偉大なデザイナーとして、今日まで語り継がれています。