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2026.02.22

レビュー

光の画家 クロード・モネ 特集

 

はじめに

 

2026年は印象派の巨匠 クロード・モネがアツい!

モネの没後100年という大きな節目を迎え、国内外であらためて関心が高まっています。

その幕開けを飾る展覧会『クロード・モネ―風景への問いかけ』展が、2月からアーティゾン美術館で開催されています。フランス・オルセー美術館の全面協力のもと、初期から晩年までの画業を約140点の作品でたどることのできるまたとない機会です。

本記事では、“光の画家”と呼ばれるモネの歩みを振り返りながら、当店で取り扱っている図録と合わせてその魅力をご紹介します。展覧会をより深く楽しみたい方や、作品をもう一度じっくり味わいたい方の参考になれば幸いです。


 

光の画家 クロード・モネ

 

小鳥がさえずるように、絵を描きたい。 クロード・モネ

Claude Monet’s PROFILE

生涯:1840.11.14~1926.12.5

出身:フランス・パリ

本名:ルツィエ・ゴンペルツ (Luzie Gomperz)

職業:画家(油彩画)

代表作:《印象・日の出》、連作《積み藁》《ルーアン大聖堂》《睡蓮》など


 

印象派前夜

 

ヨーロッパの近代化を進めたフランス革命・産業革命以降に生まれた一大芸術ムーブメント。それが印象派です。

それまでの画家は、王侯貴族の依頼を受けて宗教画や歴史画、肖像画を描くことが主流でした。しかし、革命によって社会のあり方が変わると、画家も少しずつ新たな道を歩みはじめます。

時は19世紀フランス…。

年に一度「サロン(官展)」と呼ばれるフランス芸術アカデミーが主催する公募企画展が開催されていました。

当時40万人もの来場者を記録する年もあったサロンは、画家にとってほとんど唯一の登竜門であり、重要な発表の場でした。ここで入選できるかどうかは、当時の画家にとってまさに死活問題だったのです。

今も昔も、絵画の良し悪しを自分ひとりで判断するのはなかなか難しいものです。今だって「〇〇展入賞作品!」って言われたら、それだけで価値があるように感じますよね。

しかし、審査員の好みによって評価が左右される状況に疑問を抱く若い画家たちもいました。特に当時のサロンは保守的で、アトリエで丁寧に仕上げた写実的な歴史画や宗教画が模範とされていました。

そうした美術界に違和感を抱き、自分たちの目で見た風景や光を描こうと模索し始めたはぐれ画家たちが現れます。彼らこそが、のちに「印象派」と呼ばれる存在でした。


 

モネ、パリにでる

 

クロード・モネは1840年、パリの食料品店を営む家庭に生まれました。少年時代はセーヌ河口の港町ル・アーヴルで過ごします。

ここで出会ったのが、画家ウジェーヌ・ブーダン(1824‐98)でした。ブーダンは、屋外の光のもとで制作を行う風景画家で、モネを戸外へと連れ出します。太陽の下で描く体験は、画家の卵であったモネにとって、文字通り目から鱗が落ちる出来事でした。

本格的に絵画の道で生きることを決意した19歳のモネは、ひとりパリへ向かいます。画塾アカデミー・シュイスやシャルル・グレール(1806‐74)のアトリエに通い、ピサロやシスレー、ルノワールらと出会いました。のちに印象派の中心となる仲間たちです。

そして26歳で、アカデミー主催のサロンに入選を果たします。当時の画家にとって、それは大きな成功を意味していました。

そのまま進めば、安定した画家人生が待っていたかもしれません。でも、モネはそうしなかった。輝かしい未来へとつながっているはずの既成の路線から、あえて外れる道を選んだんです。

次第にサロンから距離を取り、イーゼルとチューブ絵の具を抱えて戸外へ出ます。そして、移ろう光や空気をとらえようと、多くの風景画を描くようになりました。

◾️戸外制作

師ブーダンの影響を受けて始めた戸外制作は、モネの生涯を通じたテーマになります。屋外で風景を描くことで、刻々と移り変わる光を表現しようとしました。

この制作を支えたのが、1841年に発明されたチューブ絵の具です。絵の具を持ち運べるようになったことで、画家たちは暗いアトリエを離れ、太陽の光の下に出て制作できるようになりました。

◾️筆触分割

モネはよく仲間たちと共にセーヌ川のほとりで写生をし、お互いの絵について議論を交わしました。そうした試みの中から生まれたのが「筆触分割(色彩分割)」という技法です。

油絵の具は色を混ぜれば混ぜるほど暗くなります。そこでモネは、絵の具を混ぜずにそのままキャンバスに置き、見る人の目の中で色が混ざるように工夫しました。これにより、画面には明るく振動するような色彩が生まれます。

後に印象派を象徴するこの表現は、モネが光を追い求めた結果たどり着いた方法でもありました。


 

第1回印象派展 《印象、日の出》

 

相次ぐサロン落選を経て、モネとその仲間たちは新たな発表の場を求めました。

1874年「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」開催

いわゆる第1回印象派展です。サロンに認められないなら、自分たちで展覧会を開いて絵を売ればいい。そうした思いから生まれた挑戦でした。

しかし、この新しい試みはすぐに理解された訳ではありません。作品が売れないどころか、大ブーイングされる結果に終わりました。

その中で大きな議論を呼んだのが、モネの《印象、日の出》です。郷里ル・アーヴルの港を描いたこの作品に対し、有名な評論家ルイ・ルロワはこう批判しました。

「何だ、これは。まるで落書きのようじゃないか。自分が見た『印象』のままに描いた作品だ。」

皮肉にもこの言葉がきっかけとなり、「印象派」という名称が生まれます。

そんな大ブーイングの中で始まった若手のグループ展でしかなかった印象派展ですが、回を重ねるごとに理解者を増やしていきました。やがて10年以上にわたり、新しい芸術の方向性を示す場となっていきます。


 

新しいスタイルの追求と連作の始まり

 

19世紀半ば以降、フランスでは鉄道網が拡張され、各地への移動が容易になりました。モネもフランス国内にとどまらず、イギリス、オランダ、イタリアへと足を運びます。

1880年代、モネは当時住んでいた小さな町ヴェトゥイユを飛び出し、「絵になる」風景を求めてヨーロッパ各地を旅するようになりました。ひとつの場所に数か月滞在することもあれば、同じ場所に繰り返し通いながら制作を続けることもあります。旅先でも画家は、光、天候、季節という自然の偶発的な側面を捉えることに余念はありません。

そして続く90年代には、そうした試みは「連作」というかたちで結実します。同じモチーフを時間や天候を変えて描くことで、光の移ろいそのものを主題としました。

《積み藁》を皮切りに、《ポプラ並木》《ルーアン大聖堂》へと展開していく連作は、その後のモネ芸術の大きな柱となります。


 

睡蓮とジヴェルニーの庭

 

モネは生涯の折り返しの年にあたる1883年の初頭、いつものようにスケッチ旅行に出掛け、ノルマンディの南部に位置する小さな町ジヴェルニーで、打ち捨てられた農家を発見します。廃屋の周辺に色とりどりの美しい花々が咲き乱れていたのを見て、「これこそ自分がずっと探し求めていた場所だ!」と直感的に思ったといいます。

43歳のモネは家族を連れてすぐに引越し、のちに家と土地を購入しました。この頃になると、ようやくモネの絵も世の中に認められはじめます。

このジヴェルニーの住まいこそが、いわゆる「モネの庭」と呼ばれる場所になります。モネは何年もかけて「水の庭」と呼ばれる東洋風の水生植物園を築き上げ、晩年の30年間ほとんど外に出ることなく、この庭で多くの作品を生みだしました。

みなさんがよく知る代表作《睡蓮の池》や《睡蓮》など、睡蓮の池に映る光を描いた連作が生まれたのがこの時代です。モネが最後にたどり着いた風景でもありました。

ちなみに、この幻想的なモネの庭は今も現存しています。その絵画作品同様に、今なお多くの人たちの目を楽しませているようです。


 

まとめ

 

サロンへの挑戦、戸外制作への転換、そして連作という新たな表現。モネの歩みは、常に「光」をどう描くかという問いの連続でした。

彼の人生は非常に濃厚で、実は超浪費家だったり、奥さんが2人いたりと、ここでは書ききれない面白いエピソードや魅力がまだまだあります。

没後100年を迎えたいま、その軌跡をあらためて振り返る意義は小さくありません。

日本には多くの印象派のコレクションがあり、実はたくさんのモネ作品を鑑賞できます。国立西洋美術館(東京)や大原美術館(岡山)などおすすめですよ。また、はじめに紹介した展覧会に行くのもいいですね。

その前に予習として当店で扱っている図録で彼の作品を眺めてみるのもおすすめです。

この機会にぜひ一冊手元に置き、光の画家・モネが追い続けた“光”を体感してみてください。

 


 

↓ 今回の掲載画像の参考図録はこちら ↓

「図録 モネ 印象 日の出展」

「図録 モネ 光の賛歌」

 

↓ クロード・モネの商品特集ページはこちら ↓

特集「クロード・モネ 光の情景」