2023.02.01
レビュー
写真や本物の動物を見ると、触らずとも手触りを想像する方は多いことでしょう。とある日本画家は、見る手の想像力が掻き立てられるような、匂いや個性を紙に落とし込むことができたと言われています。
竹内栖鳳(たけうちせいほう)は、1864〜1942年の戦前を生きた近代日本画の先駆者とも呼ばれる画家です。13歳のころから画塾に通い、23歳の時には絵師として独立を果たしました。
人々を驚かせるような作品を次々と描いた竹内栖鳳は、どのような一生を送ったのでしょうか。
竹内栖鳳は、1864年に京都市の御池通油小路西入ル森ノ木町にある川魚料理店の長男として生を受けました。実家の料理店には、友禅画家の北村甚七などが常連として出入りしており、幼い頃から芸術に触れられる土台が整っていたと言われています。
栖鳳は13歳から、四条派・土田英林(つちだえいりん)の画塾に通っていましたが、17歳の時に円山・四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)の私塾に通うようになりました。
楳嶺は「鳳は梧桐に棲み竹実を喰う(鳳凰が桐の木に住み、竹の実を食べる)」の古語から「竹内棲鳳」の雅号(がごう)を授けました。この古語の意味合いは「鳳凰は聖天子と共にこの世に現れる」いわゆる「希望」であり、栖鳳の才覚はこの頃から楳嶺に目をかけられていたことがわかります。
数々の展覧会で受賞した栖鳳は、楳嶺の弟子として「楳嶺四天王(竹内栖鳳・都路華香・谷口香嶠・菊池芳文)」の筆頭と呼ばれるようになりました。
師の幸野楳嶺とは良好な関係で、絵師として独立した1884年に楳嶺が辞職した京都府画学校に入学しましたが、在籍を許されていたようです。また、関東・北越を巡る旅や祇園のフェノロサ(アメリカ人/東洋美術家・哲学者)の美術講義に一緒に行くなど熱心な指導を受け、栖鳳は「私の画家人生を支えていたのは、楳嶺先生の教育のおかげである」と語っています。
1985年に幸野楳嶺を始め、美術界の重鎮が次々と亡くなり時代の変わり目が訪れました。
1998年に第四回新古美術品展が開かれ、鑑査委員に任命された栖鳳は京都美術界の顔役になっていきます。
また、栖鳳自身も画塾「竹杖会(ちくじょうかい)」を開き、女性として初の文化勲章を受章した上村松園(うえむらしょうえん)や、のちに国画創作協会を結成する小野竹喬(おのちっきょう)など次の世代を担う画家を教えていきました。
既に実力が認められていたは、各展覧会へ作品を出品し受賞を重ねています。36歳になった1900年、パリ万国博覧会 へ視察に行くことになりました。視察と同時にヨーロッパを7か月巡り、西洋絵画に強い関心を持った栖鳳は、そこで得た技法を駆使し、自分の画法に取り入れることで京都美術界に新たな風を吹かせます。
パリ万博に出品した「雪中躁雀図」
ヨーロッパから帰国後、「棲鳳」から“西”洋から捩り「栖鳳」と雅号を改めました。
ターナーやコローといった、印象派と呼ばれる作風の画家に影響を受けた栖鳳は、翌年に新古美術品展に「獅子図」という作品を出品し、一等を受賞しました。「獅子図」は、栖鳳がヨーロッパで学んだ技法を盛り込み、立体感のある綿密な描き方で毛並みまでも表現され、セピア色で描かれたことから「金獅子」と呼ばれ評価されています。
その作品以前に描かれた獅子は架空の動物として描かれており、栖鳳がヨーロッパで動物園に行ったときに本物のライオンを何枚も写生し、構図を考え抜いて作品を完成させました。「獅子図」発表後、「同じものを描いてくれ」と依頼され獅子が描かれた作品は多数残されています。
その時期に描かれたライオン作品の1つ、「金獅」(1901年頃)
その後も様々な動物を描き、フランス・ハンガリー・ドイツで評価され賞を受けました。
栖鳳の画風は、西洋絵画の写実的に描く技法と、東洋画の伝統的な水墨画などの画法を両立させ、日本画革新運動の先駆けとなり多くの日本画家に影響を与えています。残念ながら現存はしていませんが、和洋折衷な技法を取り込んだ「猫児負喧(びょうじふけん)」は京都博覧会で3等を受賞しました。守旧派からは「鵺派」(様々な動物の部位を持つ妖怪)と呼ばれ非難されたものの、大画面を破綻させない画面構成力と圧倒的なデッサン力は評価されています。
栖鳳は師である幸野楳嶺(こうのばいれい)の「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」という教えを遵守し、身近な虫から珍しい虎まで多くの写生を残しました。
独立してからも、兎や猿・家鴨などを自宅で飼ってまで写生を続けていたため「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と言われ、栖鳳の卓越した描写力は師の教えからと言えるでしょう。また、後に京都市立絵画専門学校の教授になった栖鳳は、生徒に「充分な写生のうえで日本画的な表現である“省筆”ができる」と徹底的に教えています。
1880年頃の写生帖。鳥や虫が細密に描かれています。
栖鳳は下描きの段階でかなり試行錯誤したことが画面が真っ黒になった習作がたくさん残されていることから伺われますが、その苦労は見せないように作品は仕上げられているのも彼の実力と魅力の一つです。
1907年には第一回文部省美術展覧会(文展)が開かれ、日本画・洋画・彫刻の各部門、新旧・流派問わず東西の作家たちが集まりました。栖鳳はこの展覧会で審査員をしながら「雨霽(あまばれ)」を、翌年第二回文展では「飼われたる猿と兎」を発表しています。
「雨霽(あまばれ)」(1907年)。霽は“晴れる”と同義。雨上がりに羽繕いする一群と飛び立つ一羽の鷺が描かれています。
「飼われたる猿と兎」(1908年)
この展覧会をきっかけに流派の対立をなくしたことにより、素晴らしい作品が多く生み出され、日本美術界に大きな影響を与えることになりました。栖鳳は動物画が得意でしたが、この頃には人物画も手がけており創作に意欲的な姿勢を見せていることから、文展から良い刺激を受けていたのだとわかります。
竹内栖鳳の代表作の1つ、「アレ夕立に」(1909)。第三回文展に出品された当時は意外にも多くの批判を受けました。
栖鳳は、1909年に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教授に就任したうえ、1913年には、皇室の勅命による美術制作などを行う「帝室技芸員」になり、京都美術界の中で確固たる地位を得ました。
1918年、弟子の小野竹喬と土田麦僊(つちだばくせん)が国画創作協会(国画会)を結成しました。国画会は、文展の審査基準に不信感を持った若者たちが新たに自由な芸術を発表する場として生まれたものです。文展にて審査員をしていた栖鳳は、弟子と対立するかと思いきや弟子たちの道を応援し、国画創作協会展の国展顧問になりました。
さらに栖鳳は、国画会の自由な作風の絵画たちに新たな刺激を受け、より精力的に作品を生み出していきます。1920〜1921年にした中国旅行の影響から、その後風景画を多数制作し、暖かさのある自然と人間との調和を加えた画風となっていきます。
「城外風薫」(1930年)。中国旅行の体験を元に描かれた作品。
1924年には、日仏間の経済・文化交流の発展への功労者等に与えられると言われる、レジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)、30年にレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)をフランス政府から授与されました。
日本では公共的な業務に長年従事し成績を挙げた人物として、1925年に勲五等に叙し瑞宝章を授かり(勲五等瑞宝章/瑞宝双光章)、37年には第一回文化勲章を授与されています。
また、1931年にハンガリー最高美術賞、33年にはドイツ政府よりゲーテ名誉賞を受賞しており、日本画家代表として絶大な影響力のある人物になりました。
1931年、胃潰瘍により体調を崩し療養のため、神奈川県湯河原のかつて国登録有形文化財だった天野屋旅館を別荘にして過ごします。
竹杖会も解散させ、体調の回復と悪化を繰り返しながら作画をし続けましたが、肺炎を患い、天野屋に構えた「山桃庵」にて77歳で人生の幕を閉じました。評価・地位が一度も揺らぐことなく天命を全うしたのです。
最晩年に描かれた「春雪」(1942年)。当時、師や愛弟子たちに先立たれていた老いた巨匠の侘しさ・寂しさも漂います。
日本美術界の重鎮として君臨し続けた竹内栖鳳。2000年以降毎年展覧会が開かれています。
2013年にも「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」が東京国立近代美術館、京都市美術館 で開催されました。重要文化財である「班猫(まだらねこ)」を始めとした「羅馬之図(ろーまのず)」や「アレ夕立に(あれゆうだちに)」「河口」など、約100点が出品された他、素描や写真などの資料約50点が展示された大規模な展覧会でした。
「羅馬之図」(1903年)
現在、ノースブックセンターの販売サイトにて取り扱い中の「斑猫」が表紙となっている「図録 竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」は、この2013年の展覧会で展示されたものがまとめられている公式図録となります。
「竹内栖鳳の作品をじっくり眺めたい」と思っていただけたなら、ぜひお買い求めください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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