2023.01.24
レビュー
今回はナショナリズム論を論じる上で避けては通れない、古典中の古典である一冊をピックアップいたします。
それがこちら。
「定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」ベネディクト・アンダーソン著 /白石隆・白石さや 訳、2007年、書籍工房早山
です。
こちらは書名の副題にもあるようにナショナリズムの概念はどうやって、いつ起こり、そしてどういった経緯で広く社会に浸透していったのかということを述べた本となります。
冒頭に“古典”と書きましたが、こちらの原著初版である「Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism」(以下、IC)は1983年に発行されました。今年でちょうど40年目になりますね。その後、1987年に日本語訳が出版され、ICは少なくとも今回ご紹介する「定本」版をアンダーソンが書いた2006年末までに30カ国、27言語で出版されました。
また、1991年には増補版が出版され(日本語訳は1997年)、初版では9章までの内容だったものに「10章 人口調査、地図、博物館」、「11章 記憶と忘却」が追加されました。
2006年の「定本」版の原著出版時には「旅と交通 -『想像の共同体』の地伝について」(以下、「地伝」)が最終パートとして追加されており、先程の出版国、翻訳言語数はこちらの文章から引用しています。
ちなみに、日本語訳版は世界初のIC翻訳版でした。他の国に先駆けてICが日本語に訳されたのはアンダーソンが本書冒頭の「感謝のことば」でも名前を挙げた、氏のコーネル大学時代の弟子でもある白石隆氏、共訳者の白石さやの両氏の存在が大きいでしょう。今回追加された上記の「地伝」にはICが各国で翻訳・出版されていった経緯も紹介しているのですが、アンダーソンは時にはその外国語版の出来に辛辣な言葉を添えています。それをうまく表現したものが「翻訳とは裏切りである(トラドウツトーリ・トラデイツトーリ)という皮肉な格言」(P376より引用)ですが、実はこの同じ表現を翻訳者である白石隆・白石さやも「初版 訳者 あとがき」にて用いているのです(P383)。師弟関係にあったとしても、ここまで気が合うことはなかなかないのではないでしょうか。
また、本書では第8章に平家物語の有名な冒頭部が引用されており、わたしは読みながら「アンダーソン、平家物語まで知ってるのか!すごい!」と思ったのですが、どうやらこれは日本版に限っての記述らしいのです(巻末近い「地伝」で明らかになります。)。これはアンダーソンも承知の上での補筆であり、このことからも白石両氏にアンダーソンが絶大な信頼を寄せていることが伺えます。
そして、もう1つ日本語訳版の特徴に表紙に使用された写真があります。こちらのひげを生やした3人の男性が並ぶ写真、ICに使用したのは原著初版と日本語版だけなのだそうです。他の国での翻訳版では「国民」や「国民主義」を想起させる画像(韓国版ではサッカー・ワールドカップで応援している人々の写真が使用されている(「地伝」より)。)や、その他のものを使用しているそうです。アンダーソン氏はこの写真について「植民地時代のインドネシアのだまし写真」(「地伝」P357より)と言及するにとどめており、どこが「だまし」なのか、そもそもどんな意味のある画像なのかが分かりません。しかし、自身の渾身作の表紙に選んだ何かしらの意味があるはずです。その同じ写真を採用することで、その意志も尊重しようという弟子の師に対するリスペクトが日本語版表紙にも表れているのでは?!と深読みしてみたものの、日本語版でももちろん表紙についての言及はなく、真相は謎のままです。
もし、ご存知の方は教えてください!気になります…!
本書をざっと読んでの感想となりますが、一番驚いたことは著者の知識の広さと深さでした。何かの起源を論じるためには、少なからず歴史に関する知識が必要となります。また、本書の内容はどこかの地域のみにおけるナショナリズムではなく全地球的なムーブメントに触れているため(話をわかりやすくするため、一定の地域を例示している部分はあります)、その範囲も広範なものとなっています。本書ではナショナリズムの勃興は意外と新しい時代のこととしているため18世紀以降の著述が中心とはなりますが、それにしても視点がヨーロッパ、南北アメリカ、アジア(著者自身が認めているようにアフリカについての記述は少なめです。)の古今東西に向けられ、その知識はどうやって得たのだと非常に不思議になります。
更に、著者が1991年に増補版を出版した際に寄せた「増補版への序文」には「1983年当時、わたしはスペイン語が読めず…(中略)…まちがいだらけであり、わたしがこれに気づいたのはようやく1990年になってからのことであった。」と書かれています。…ということは、その間にはスペイン語が読めるようになったということです。また、Youtubeには著者がインドネシアの大学で講演している動画が残されているのですが、ここではインドネシア語と思しき言葉を話しています。著者の能力の高さが記憶に関するものだけでなく、言語を実際に読み、話すという実際的なものにも及んでいることが分かります。著者が本書においてナショナリズムの起源を求める切り口の一つに「言語」(聖語と俗語、国家語など)を選んだことも、著者自身がマルチリンガルであったことが背景としてあったのではないかと感じました。
また、著者は母がイギリス人、父がイギリス系アイルランド人で中国雲南省昆明生まれという経歴を持ちます。「アジアで生まれたからアジアに興味があるのも当然」と捉えるのも安直な感じがしますが、幼い頃に著者が置かれた文化的な背景がその後を運命づけたようにどうしても感じられてしまいます。特に、本書において言説の脱ヨーロッパ化を目指した理由をこうした出自に求めるのも無理のないことでしょう。
本書においてアンダーソンの提唱した「出版資本主義」や「公定ナショナリズム」などの用語にまつわる解説は、今更わたしがここで書くこともないかと思います。ただ、注意点があります。本書カバーの巻頭折り返しには次のような引用があります。
「国民はイメージとして心の中に想像されたものである。国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。そして、たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。そして、この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。」
この引用部からのみ本書の内容を推測すると、“人の手で比較的新しく作り出されたナショナリズムなるものに振り回されるのなんてナンセンス!”というような感じなのかな?と思われるかも知れませんが、(そういった部分も少しはあると思いますが)本書全体を読むとアンダーソン自身はそこまでナショナリズムについて否定的ではないのかなと感じました。読まれた方の感想を是非聞いてみたいところです。
アンダーソン氏が本文の執筆にあたっては難しい学術的な言い回しは避けた、と言うように理解不能な単語はほとんどありません。しかしながら、上述のように射程となっている分野の広さゆえ、引用されている思想そのものへの理解が追いつかない感があり、個人的には消化不良感が否めません。アンダーソンがそれではナショナリズムについて説明し得ないとしたマルキシズムや自由主義、ところどころ引用されているトム・ネアンやアーネスト・ゲルナー、エリック・ホブズボームなどの周辺著作なども勉強しなきゃな~と改めて思った読後でした。
スタッフN
★ベネディクト・アンダーソンが日本の学生、将来の研究者にあてて書いたメモワールも以前スタッフブログで紹介しております。レビュー記事はこちら→「ヤシガラ椀の外へ」
★今回ご紹介した「想像の共同体」はこちらよりご購入可能です。よろしければ、青土社「現代思想」の「想像の共同体 特集(1996年8月)」もあわせてどうぞ。