2023.03.31
レビュー
近代日本画のパイオニアとも言える存在、前田青邨(1885-1977)の生涯を追った図録『図録 特別展 前田青邨 その人と芸術』が入荷中です。
ゴッホやセザンヌ、ピカソなど近代の西洋画については大規模な展覧会が開催されていることもあり馴染み深いですが、同時代の日本画について詳しく知る方はあまりいらっしゃらないでしょう。
(どちらかといえば浮世絵や宗達、光琳、広重といった近世の日本画が有名かと思います)
21世紀初頭の美術は、新たな絵画ジャンルを生み出した欧米の画家たちが脚光を浴びるなか、岡倉天心や横山大観といった日本の画家は新たな日本画を模索していました。
そのなかの1人が、今回紹介する前田青邨です。
青邨は、1885年の1月に岐阜県の中津川にて生まれました。父親は工場を経営していましたが、経営に失敗し、全財産を失いました。その後職を転々としましたが、乾物屋を始めたところ繁盛し、青邨も家業を手伝うようになります。
幼少期の青邨は画家になりたいといった夢はありませんでしたが、図画の授業の成績は良かったようで先生に褒められることが多かったようです。
そのような中、13歳の頃に母親を肺病で亡くし、上京しました。しかし、上京先にて青邨自身も肺病を患ってしまい中津川に戻ることに…。
体調も回復し再度上京した青邨は、画業で生きていく決意をして尾崎紅葉の紹介で梶田半古に入門しました。当時の梶田半古は尾崎紅葉の『金色夜叉』の新聞連載欄の挿絵を担当するなど、人気画家でした。青邨は梶田半古のもと、菊池容斎『前賢故実』の模写を中心に古典を学ぶなど、テクニックを習得していきました。また、同時期に小林古径らとも出会いました。
1902年には武者絵『金子家忠』を初出展し、梶田半古から初めて「青邨」の号をもらいました。しかし、後日青邨が日経新聞の連載『私の履歴書』で語るには「青邨」に対して不満があったのだとか。というのも、梶田半古の弟子たちは「古」の字をもらっていることが多く、それを羨ましく思ったようです。
青邨は出展をきっかけに彼の代表作品のモチーフである武者絵を中心に描いていくことを決意して、古典を学びに大学の授業を聴講するなど、さらに深みをもった制作に励むようになりました。
その後、青邨は1908年に今村紫紅や安田靭彦らを中心に発足した紅児会(こうじかい)に入会しました。紅児会では当時の新鋭作家が集まり、青邨自身も刺激を受け、後の彼の作風に影響を与えたようです。
『竹取物語』では、紅児会の影響が垣間見える作品となっていて、当時の日本画のパイオニアたちの技量で歴史画が再現されています。
画像:「竹取物語」(1914)より。右頁には幼少期のかぐや姫が、左頁下には月世界に迎え入れられる姫の様子が描かれています。
紅児会はその後1913年に解散しますが、青邨はその直前に岡倉天心と出会います。展覧会の会場にて青邨が1人でいるところ、岡倉天心が突然入ってきたようで、彼が青邨の武者絵を目の前にして「ニゴリを取れ」と指摘しました。青邨はまさしく「やられた」と感じ、岡倉天心に感動したとのこと。近代日本画の父ともいえる岡倉天心ゆえ、青邨の才能を見抜いていたのでしょう。
第一次世界大戦開戦後、青邨は朝鮮や中国、ヨーロッパを旅行し、その土地で見た景色を描くようになりました。
例えば朝鮮に行った後に描いた『京名所八題』では、今の京都とさほど変わらず、長く大きな歴史の中に自分達が佇んでいることが分かるでしょう。古典や歴史を学んだ青邨が描く作品ゆえの、歴史に対する情熱を感じさせられます。
画像:「京名所八題」(1916)より。右から「清水寺」「祇園会」「先斗町」「四条大橋」。
1922年に小林古径らとともに渡ったヨーロッパでは、青邨はイタリアの中世画家のジョットやセザンヌに感銘を受けました。とりわけ線や形、構図といった点に興味を持ち、帰国後の彼の作品にも反映されています。また、エジブトの古美術の線描など、海外での滞在経験が彼の制作活動を鼓舞しました。
青邨の帰国後の作品『花売』や『ラ・プランセス』では、構図(コンポジション)を意識している点がうかがえます。立体感を線描で表現するのも、これまでの日本画にない、画期的な試みだといえるでしょう。
画像右:「花売り」(1924)
生涯を通して青邨の線への信念は変わらず、1955年の院展に出展した『出を待つ』では能舞台に立つ役者の姿が描かれています。この作品では静謐さのなかにある役者の緊張感が線によって表現されており、円熟した描写力がうかがえます。
画像左:「出を待つ」(1955)、画像右:「ラ・プランセンス」(1957)
それと同時期に青邨は東京藝術大学日本画科主任教授の辞令をもらったものの、先生といった職業が苦手だったようで、何度か断わりましたが、学長からの押しに負けてしまい引き受けることになりました。最初のうちは教えることに抵抗があったものの、生徒と接するうちに次第に熱心に教鞭を取るようになり、名誉教授にもなったほど。
70歳となった1955年には古希を記念して青邨にフォーカスした展覧会が開催されました。これまで青邨が描いてきた作品を目の前に「なつかしさと同時に、こんな仕事しか出来なかったのかという恥ずかしさもおぼえた。」(『私の履歴書 文化人6』日本経済新聞社、1983年)と彼自身が述べているほど、腰が低く謙虚な人柄だったのでしょう。彼の作品を初めて見たときの柔らかなイメージと同様、作品は人柄を示すのだなと感じました。
1956年には、宮内庁からの依頼で能の『石橋』を題材に皇居の饗応の間の作品を描きました。ほかには日光二荒山神社の宝物館の壁画や法隆寺の壁画再現にも参加しました。法隆寺の壁画制作には、青邨のほかにも安田靭彦が加わりました。彼にとっては法隆寺が焼ける前のイメージしかなく、制作には手こずったようで、とても無理な仕事だと感じたようです。そのため、法隆寺を何度も訪れ、やぐらの上から細かに観察するなど徹底した研究を重ねて作品を制作しました。歴史に名を残す大きな仕事に取り組む中で、青邨は日々緊張感とともにあったことでしょう。
青邨の作品は歴史画が中心となっていますが、織田信長などの歴史上の著名人物を現代風に描いた作品のほか、俵屋宗達の『風神雷神』や酒井抱一『夏秋草図屏風』のコンポジションや描法を取り入れた作品など、伝統と現代を組み合わせた世界観が特徴的です。日本の歴史の精神性を感じつつも、現代的で軽やかな筆致ゆえ、歴史的建造物の壁画制作の際に注目されたのでしょう。堅苦しさを感じさせない柔らかい色彩や線描は彼の特徴ではないでしょうか。
上画像左:「異装行列の信長」(1969)。太田牛一著「信長公記」が伝える信長の異装(風変わりな服装)を描き出した作品。
上画像:酒井抱一ら琳派を彷彿とさせる金箔の背景に花(ポピー)が並ぶ「罌粟」(1930)
また、歴史画を描くことで知られる青邨ですが、馴染み深く可愛らしい作品も残しています。『猫(黄色いカーペット)』や『鯉』、『かちかち山』では、自然への優しい眼差しがうかがえます。「こんなゆるい雰囲気の作品も、青邨は描くのか!」という新たな発見があります。特に『かちかち山』のゆるゆるな感じは、仙崖作品を想起させてしまい、思わずクスッとします。青邨はおちゃめな方だったのかなと想像を膨らませてしまいます。
上画像左:上述の俵屋宗達を取り入れた「風神雷神」(1949)、画像右:「猫(黄色いカーペット)」(1949)
上画像左:「鯉」(1966)
上画像左:「かちかち山」(1947)
そんな可愛らしいギャップがありつつも画家としての青邨の矜持も忘れずにお伝えいたしましょう。線に対する信念の強かった彼ですが、日本画を描くうえで大切なことは写生だけでなく、古画の研究でした。ただ目の前にある作品を書き写すのではなく、その背景にある日本独自の思想やしきたりを身体で知るのは、日本文化の「道」と通ずるものがありそうです。
また、昭和7年の『塔影』のインタビューにて、画業初期の無駄ともいえる経験について青邨は、「今日の若い画家は、この無駄について恐らく一顧だに払う者がない。労力を費(はら)う代りに頭で作り上げようとする、これ一般の傾向である。」と述べており、いつの時代も年長者は若者の無駄を省こうとする行為に対して口出ししたくなるのだなと感じます。果たして、青邨が今の時代に生きていたとすると、国境を越えて誰もが簡単にアーティストになり得るこの状況をどのように思うのか、気になります。
ここで紹介した『図録 特別展 前田青邨 その人と芸術』では、青邨の初期作品から円熟期の作品まで堪能できます。その間日本では2つの大戦や、高度経済成長期を経ています。歴史が大きく流れた時代に生きた歴史画家の彼は、どのように時代を切り取って、過去の歴史を描いたのでしょうか?じっくり考察しながら図録を眺めてみるのも面白いはずです。また、前田青邨という1人物の人柄に焦点を合わせながら眺めるのも良いでしょう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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