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2025.10.08

レビュー

フィンセント・ファン・ゴッホ

 

<うねる筆致、激しい色彩 ゴッホ>

 

図録 没後120年 ゴッホ展より「灰色のフェルト帽の自画像」

2025年から2027年にかけ、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」「大ゴッホ展」など、ゴッホにまつわる展覧会が続々と開催されていきます。

自らの耳を切断した事件など、センセーショナルなエピソードから話題になりやすい画家ですが、その作品は美術史において、大きな役割を果たしています。

画家として活動したのは十年ほど。

中でも、代表作とされる作品を生み出したのは、ほんの二年あまりの間のことです。

絵に関して本格的な指導もさほど受けていない彼が、なぜ短期間に、後世に残る作品を描けたのでしょうか。

その波乱に満ちた生涯とともに、作品を振り返っていきましょう。

 


 

<居場所を探して>

フィンセント=ファン・ゴッホは1853年3月30日、オランダ南部の町ズンデルトに、牧師の息子として生を受けます。

自然が残る土地柄、教会という生育環境が、のちの彼の作風に大きな影響を与えました。

一方、「集団に合わせる」というスキルに恵まれず、衝動的な行動を起こしがちだった彼の生活は、少年時代から困難なものでした。

激昂して人と衝突しやすく、学校から無断でいなくなる等、問題行動を重ねるうちに中学校を中退。

まずは叔父が経営するグービル商会に職を得ることになります。

入社当初は真面目に勤務していましたが、しだいに「商売」というものに疑問をもつようになると勤務態度は悪化。恋愛関係でもトラブルを起こし、最終的には解雇されてしまいます。

ビジネスの世界から離れ、「貧しい人を救いたい」と考えたゴッホが次に目指したのは、父と同じ「牧師」の道でした。

ゴッホの特性を把握していた父は反対しましたが、それを押しきり大学の宗教科に入学。しかし、身内の心配は的中しました。

必須科目であるラテン語に苦しみだすと、「そもそも人を救うためにこんな言語は必要ない」という言い分を残し、中退。

次いで、勉学を必要としない伝道師を目指すも、ここでも彼の行動は周りから逸脱してしまいました。

貧しい労働者に自分の服を与え、自らは裸になり外に寝転ぶなど、極端な振る舞いが周囲を困惑させ、破門。

聖職者への道は完全に断たれてしまいました。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より 「開かれた聖書のある静物」

自らの熱意を受け入れてくれなかった「宗教」という存在は、のちの彼の作品に形を変えて現れることになるのですが-集団の中に居場所を見つけられなかったゴッホが最後に選んだのが、「画家」という職業だったのです。

 


 

<初期の作品>

 

職を失ったゴッホは、経済的には家族からの支援を受けつつオランダ各地を転々と回り、制作活動に励むようになります。

「本当に価値があるものは汗して働く労働の中にある」と考えたゴッホは、農民画で有名なジャン=フランソワ・ミレーに傾倒し、多くの作品で農夫をモチーフに選ぶようになります。

その中の一つ、『馬鈴薯を食べる人々』をみてみましょう。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「馬鈴薯を食べる人々」

農家の食事風景を複雑な構図のなかに収め、「土を掘る人々の手を意識して描いた」という言葉のとおり、農民や労働への敬意を表現した、ゴッホの自信作です。

しかし、当時のヨーロッパでは華やかな作品が席巻しており、暗い色彩が印象に残るこの作品は評価を得ることはできず、ゴッホの制作意図が伝わることもありませんでした。

他の絵も売れることはなく、息子の先行きを案じるが故に衝突していた父が亡くなると、ゴッホは画商として働いていた弟テオを頼り、パリへと向かいます。

 


 

<パリでの模索>

 

1886年、33才にしてパリの地を踏んだゴッホ。

世界中から才能が集まる流行の最先端。華やかな都会。

モネ、ルノワールといった印象派の画家たちによる光溢れる作品に触れ、ゴッホの色彩感覚は一転します。

使われる色は明るくなり、描くモチーフも、花や本などの静物、窓からみえる街並みといった、当世流のものに変わってゆきます。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「レストランの内部」

技術面では、ジョルジュ=スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を目にしたことで、混色せず異なる色同士を置くことで光を表現する「点描理論」を知り、『レストランの内部』という作品の中でその技法に挑戦しています。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「石膏像のある静物」

『石膏像のある静物』では淡い青と黄色という反対色を使用した書物を描き、

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「芸術家としての自画像」

『芸術家としての自画像』では点描により肌つやの照りを表現するなど、モチーフ・色彩・手法において、独自の画風を模索する時期だったといえるでしょう。

 


 

<浮世絵との出会い>

 

ゴッホがパリに滞在していた当時、ヨーロッパには数多くの日本の作品が輸入されるようになります。

見たことがないそれらの異国文化は、「ジャポニズム」として一世を風靡しました。

中でも、ゴッホに大きなインパクトを与えたのが浮世絵です。

はっきり引かれた輪郭線・平面的な塗り・画面を大胆に切る構図・鮮やかな色彩は、従来の西洋画におけるセオリーとは真逆のものでした。

それでは、浮世絵に傾倒したゴッホの作品をみてみましょう。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「花魁(渓斎英泉による)」

『花魁』は浮世絵を元にした習作ですが、まず目に入るのは画面構成です。

原作にはない外枠が付け加えられ、中心の女性と竹林、蓮の池が不思議な空間を生み出しています。

色彩についても、これまでの彼の作品に比べ、赤と緑・黄色と青という反対色が、よりビビッドなトーンで塗られています。

その後も浮世絵の模写やオリジナルの作品を量産し続けるうち、その情熱は美術の枠を超え、日本という国への憧憬に発展します。

人生において、常に自分の居場所を探し求めていたゴッホはついに、実生活でのユートピアを夢想しはじめました。

それは、かつて諦めざるを得なかった、教会や伝道に代わる彼なりの理想の場所づくりであったのかもしれません。

 


 

<アルルでの開花>

 

そんなゴッホが見つけたのは、あたたかい太陽が照りつける南仏アルルでした。この土地で、共同生活を送ることを画家仲間に提案します。

しかし、パリでも奇行を繰り返し、変わり者とみられていたゴッホの案に乗ったのは、ポール=ゴーギャンのみでした。

その彼でさえ、本心は同居による経済的メリット・画商である弟テオとのコネクションを期待したものであり、ゴッホの夢に心から共鳴していたわけではありませんでした。

予め破綻の要素を含んだ生活でしたが、それでもゴッホは、彼の人生の中では最も落ち着いた日々を過ごすことになり、パリでの修行の成果が結実。

のちに傑作と称される作品を生み出していきます。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「夜のカフェテラス」

代表作『夜のカフェテラス』は、消失点から外に向かう構成で画面に奥行きを出し、中心のカフェに立つギャルソンと十三人の客は、キリスト教の暗喩とも指摘されています。

黒を使わない夜空の明るい青と、ガス灯に照らされた庇の黄色による強烈な対比。くっきりした輪郭線と相まって、見る者に鮮烈な印象を残します。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「種まく人」

『種まく人』はタイトルが示す通り、敬愛するミレーからの影響を色濃く感じさせる作品ですが、オランダ時代の農業画とは一線を課した出来栄えです。

画面中心に、圧倒的な存在感をもった太陽が描かれ、眩しいといえるくらいの黄色で描かれたタッチが、全てを照らす光を表現しています。

金色の麦穂が落とす影は青紫色で、この頃から「実際の色よりも、自分の感情を投影した色を選ぶ」感覚が鋭くなっているようです。

この絵に対しゴッホは「神の言葉をまく人になりたい」という言葉を残しています。

「種をまく」という動作が、農作業を超えた行為であることがうかがえる、独自の宗教観が集結した作品といえるでしょう。

このように、アルルでの日々はゴッホの才能が花開いた時期ではあったのですが、現実の生活に目を向けてみると、理想主義であるゴッホと、現実を知るゴーギャンの間に生まれた亀裂は次第に互いを蝕んでいきました。

1989年12月。激しい言い争いの後、ゴッホは自らの耳を切断するという衝撃的な事件を起こし、二年の共同生活はついに破綻を迎えます。

 


 

<渦巻きと歪み>

 

再び夢が破れたゴッホは、それまで拒んでいた精神病院での生活を受け入れ、サン=レミ病院へ入院します。

そこで許された創作活動を再開したのですが、選ぶモチーフや画風に大きな変化が見られます。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「悲しむ老人」

『ピエタ』『善きサマリヤ人』の苦しげなキリストやユダヤ人、『悲しむ老人』の背を丸めて顔を伏せる老人は、描き手であるゴッホ自身の内なる苦しみを投影しているかのようです。

図録 ゴッホ展ー孤高の画家の原風景 より「糸杉と星の見える道」

『糸杉と星の見える道』では、後期作品の特徴である、月や大気にまとわりつく大きな渦巻きが見られ、ただならぬ、差し迫った効果を生み出しています。

通常、空にこのような渦は見られません。しかし、不安を抱え苦しむゴッホの目には、このように見え、感じられたのでしょう。

また、この頃からよく描かれるようになった糸杉ですが、ヨーロッパでは「死」を象徴するモチーフとして知られています。

樹木は通常、真っ直ぐ地面に立っているものですが、ゴッホの手にかかると、めらめらとたちのぼる炎のようにゆらめいています。

丘に広がる家並みや道も同様に、あえて歪ませたような表現が目立つようになってゆきます。

「見たままではなく、自分の内面に生まれた感情をのせて描く」という画風は、のちのヨーロッパに現れる「表現主義」の萌芽だとされています。

 


 

<人生の終わりに>

 

図録 ゴッホ展 より「テオ・ファン・ゴッホの肖像写真」

これまで精神面、経済面にわたりゴッホを支えてきた弟テオもまた、人生の岐路に立っていました。

妻を迎えたテオは1890年1月、子どもを授かります。

ゴッホもこの慶事を喜び、祝いの絵を贈りましたが、同時に、これまでのように自分への支援を続けてもらえるのか不安に感じていたといわれています。

また、テオは勤め先からの独立を考えていたのですが、経済的な面で周囲からの激しい反対を受けており、それを知ったゴッホは、自分の存在が弟の負担になっているのではないかとひどく悲しんだそうです。

同年7月、オーヴェル=シュル=オワーズの麦畑でゴッホは腹を銃で負傷し、三十七年の人生に幕が下りました。

公的には自殺とされていますが、現在でも謎の残る死だと考えられています。

 


 

<作品が果たした役割>

 

ゴッホの死から半年後、元々病弱だったテオもまた、兄の後を追うように亡くなってしまいます。

強力な味方を失ったゴッホの作品を世に広めたのは、テオの妻、カーでした。

作品や書簡の収集・保存、展示会の開催といった普及活動に努めたことで、ゴッホの評価は徐々に高まってゆきました。

彼女の没後も親類によってその仕事は継がれ、今日ではゴッホの絵は、世界中でゆるぎない価値を築いています。

人生において、生きづらさを抱えていたであろうゴッホ。

弟テオの支えにより、画業に専念できる環境にあったこと、また「自分には画業しかない」という状況と情熱が、短い生涯で美術史に残る傑作を生み出すことができた原因かもしれません。

青年期から強く抱いていた「人を救いたい」という考えからは、そのことによって「自らの存在意義を確認したい」という姿勢を感じます。

宗教ではなしえなかったその思いは、芸術という形に変わり、彼の残した作品によって果たされたといえるのではないでしょうか。

 

 

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