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2022.10.13

レビュー

ヘンリー・ダーガーと非現実の王国で

FlatSurfaceより

この世で一番長い物語。

それは孤高の芸術家ヘンリー・ダーガーによる、15,145ページの小説と、約300枚の挿絵からなる『非現実の王国で』(正式には『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』)という物語。タイトルも長い。

ダーガーは19歳から81歳で亡くなるまでの約60年間、この物語をたったひとりで描き続けたといいます。

「グランデリニア」とよばれる子供奴隷制を持つ軍事国家と「アビエニア」とよばれるカトリック国家との戦争を従軍記者であるダーガーの視点で描いた架空の戦記なのですが、あまりにも遠大なストーリーのためか、これまでこの作品は外国語版を含めてテキスト全文が刊行された事はなく、世界最長にして、未出版のため、ギネスにも未登録なのだそう。

いまとなってはアウトサイダー・アートの巨匠とも称されるヘンリー・ダーガーですが、この世紀の超大作である『非現実の王国で』も、彼の稀有な才能も、巡り合わせが悪ければ、一生誰にも知られることなく葬り去られていたかもしれないことをご存知でしょうか。

その理由は彼の自閉的な生涯にあります。

ヘンリー・ダーガー(Henry Joseph Darger, Jr. , 1892-1973)

1892年にシカゴで生まれたダーガーは、幼くして母親を亡くし、面倒見のよい優しい父親と二人暮らしとなります。父が教育熱心だったこともあり、ダーガーははやくから読み書きを覚え、入学早々3年生に飛び級するほど賢かったそう。

親子の幸せな時間も束の間、ダーガーが8歳になる頃に父が体調を崩し救貧院のホームへ入居したことで、ダーガーはカトリックの孤児院で暮らすことになります。

ダーガーは相変わらずの秀才でしたが、次第に口や鼻から妙な音を立てる様になり、周囲から「クレイジー」と呼ばれ、さらには感情障害の徴候も見られるとされ、11歳になると精神薄弱児収容施設に移されてしまうのです。(しかし実際には、口や鼻の音はトゥレット症候群によるものであり、ダーガーに障害があったわけではなかったとか)

施設の子供たちは厳しい戒律のもと、シスターの指示で毎日奴隷のように朝から晩まで働かされました。この施設は後に、虐待や陰湿な体罰・放置による入所者の怪我や事故、入所者の遺体処理や解剖などの問題が発覚しており、ひどい環境であったことがうかがえます。なかでもダーガーは大人の世界の矛盾や嘘、不正にとても敏感な少年だったため、教師たちからは「生意気な生徒」と思われ、特別厳しく体罰を受け、叱られる対象でした。

15歳の頃、父が死去した事を施設で知ったダーガーは深い悲しみに打ちひしがれます。そして「自分を助けに来てくれる人はもう誰もいない」ことを悟り、施設からの脱走を試みるのです。二度の失敗の後、脱走に見事成功するも、その後は孤独な暮らしが待っていました。

ダーガーは名付け親を頼り、聖ジョセフ病院に住み込みで働き始めます。仕事は床拭き。このあと54年にわたり、ダーガーは3つの病院を転々として、清掃、皿洗い、包帯巻きなど、アメリカ社会の底辺で低賃金の職に就きます。それと同じくして、『非現実の王国で』の執筆を開始。

1932年にとある小さなアパートに移り、人生の残り40年をその20平方メートルほどの小さな部屋で過ごします。昼夜と働き、仕事から帰れば人知れず『非現実の王国で』の原稿を書き続けました。

近所の住人は、ダーガーを人付き合いが悪く、みすぼらしいホームレスのような人、と認識していました。ひび割れた眼鏡を絆創膏でとめ、長い軍用コートを着た老紳士。時折、ゴミを漁る姿も目撃されたそう(ゴミ集めは、本を制作する材料を集めていたようです)。稀に口を開けば、天気の話しかしなかったとも。

73歳の時に掃除夫を解雇され、できた時間で自伝の執筆を開始。やがて年老いて階段が使えなくなると、ダーガーは父親と同じ救貧院のホームに移動。

そして翌年1973年に81歳で亡くなります。

‥いやいやいや、いつ日の目を見るの!?と思ったそこのあなた、ここからなのです。

ダーガーが亡くなる少し前に、住んでいたアパートの大家であるネイサン・ラーナーに持ち物の処分を問われた時、ダーガーは「すべて捨ててくれ」と答えたといいます。ダーガーの死後、部屋の片付けに入ったネイサンが目にしたのは、十字架、壊れたおもちゃ、テープで張り合わせたいくつもの眼鏡、左右不揃いのボロ靴、旧式の蓄音機にレコードの山といった、40年分のごみとジャンクの集積でした。紐で束ねた新聞や雑誌の束は天井に届くほどに積み上げられ、床には消化薬の空ビン。

トラック二台分のゴミを捨てた後、ネイサンはダーガーの旅行鞄の中から奇妙なものを発見します。それは花模様の表紙に金色の文字で『非現実の王国で』と題名が記された原稿15冊でした。全てタイプライターで清書され、7冊は製本済み、8冊は未製本。さらに物語を図解する絵を綴じた巨大画集が3冊。数百枚の絵には3メートルを超える長いものもあり、粗悪な紙の面と裏、両面に描かれていたと言います。これらはすべて、ヘンリー・ダーガーの秘密のライフワークでした。

普通の大家さんだったら捨ててしまうに違いない、身寄りのない下宿人が残した奇妙な代物に、稀有な芸術的価値を見抜いたのはネイサンの眼に他なりません。

大家であるネイサン・ラーナーはシカゴ・バウハウス派の写真家で、優れた工業デザイナーでした。ネイサン自身も芸術家であったことから、ダーガーの才能は埋もれずに済んだのですね。(よかった、、本当によかった。。。)

ダーガーの遺作の偶発的発見者となったネイサンは、著作と絵、そして部屋を4半世紀にわたって保存し、美術関係者や研究者を招き入れて、1997年に亡くなるまでダーガーのライフワークの真価を問い続けました。

世間から孤立したダーガーの作品は、リアリティーとフィクションが交差しながら、不可思議な異空間を創り出しています。

例えば、作中に登場する「強制労働場」は、ダーガーが入れられていた施設でのトラウマを思い起こさせます。

また、ダーガーのカトリックに対する信心深さは物語に登場する少女達にも色濃く反映されているようです。

作中には裸体の少女達が多々登場しますが、その姿はとてもシンプル。神聖で汚れのないものとして描写されています。なかには、男性器がついている少女も。これについては、ダーガーが女性の体を知らなかったために、少女に男性器をつけてしまったと言う説と、戦う少女達の勇ましさを表現するために描かれたと解釈する説もありますが、本当のところはダーガーにしかわかりません。

ダーガーの絵はすべて独学。貧しさ故に、画材はこども用のお絵かきセットを使っていたとか。雑誌などの切り抜きをコラージュしたものからはじまり、だんだんと雑誌の表紙や写真を写して絵を描くようになったといいます。

ダーガーはアウトサイダー・アーティストと位置付けられることが多いのですが、これについては否定する意見も多く見られます。そもそもアウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の定義自体が曖昧なので、人により解釈が様々。(現在の日本ではそのなかの一部分でしかない「障害者の表現」として用いられることが多いです。)

しかし、「正規の美術教育を受けていない人による芸術」、「既存の美術潮流に影響されない表現」ということであれば当てはまっていると感じます。

ダーガーの作品とダーガー自身の人生を切り離して考えるのはとても難しい。なぜならば、誰に見せることもなく半世紀以上もの間、たったひとりで描き続けた作品群は、単なる”自己表現”とは違い、内なる感情を注げる場所が紙上にしかなかったことを物語っているからです。

深い孤独のなかでダーガーが生み出したもうひとつの世界は、きょうも驚くべき美しさと奇妙さを備えながら色鮮やかに浮遊し、見る人の心を揺さぶり続けるのです。

「Henry Darger」

現在ノースブックセンターの販売サイトには2009年に刊行された画集が入荷中。

数あるダーガーの画集の中で、群を抜いてボリュームがあり、原画のカラーが忠実に再現されている本書。大型で見開きの仕様もあり、細かく描きこまれた箇所までじっくりと堪能することができます。

初期のコラージュや自伝である『私の歴史』も収録されており、資料価値の高い一冊。日本ではなかなか手に入りにくいものですので、ご興味がある方はこの機会にぜひ☻

最期まで読んでいただきありがとうございました!

スタッフS