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2022.09.01

レビュー

【哲学】「デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス」

今回は哲学分野の本を一冊紹介させていただきたいと思います。

それがこちら

「シリーズ・哲学のエッセンス デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか」(森本浩一 著、2004年 日本放送出版協会(NHK出版))

です。

 

「哲学の本を読みたいなー、でも、どこから読んだら良いのか分からないなー」という方が高確率で出会うことになるシリーズ、NHK出版の「シリーズ・哲学のエッセンス」からの一冊です。

現在手元にある2004年初版の帯では[全16冊]となっていますが、こちらの記事を書いている2022年9月現在、NHK出版のオフィシャルサイトで同シリーズを検索すると「西田幾多郎」や「デリダ」、「スピノザ」など8作が追加発行されたようで、紙媒体のものでは24作がヒットします。最新作の発行が2006年で止まっているところをみると、これで全作ということでしょうか。まだ他にもエッセンスを絞ってもらいたい哲学者・思想家はたくさんいるので、ここで止まってしまっているのは残念としか言いようがありませんが・・・。新刊発行再開しないんですかね~。

わたしも上記のように「哲学をかじりたい」という衝動にかられ、シリーズの記念すべき第1作目「ニーチェ」を読んで残念ながら頭がショートを起こしてしまったのですが、おそらく「ニーチェ」の執筆を担当された神崎繁氏の文章が合わなかったのだと、今になって思います。(それは神崎氏の文章がダメだという意味ではなくあくまで相性の問題、もしくは私の理解力の問題です。)

こちらのシリーズは、今回の「デイヴィドソン」の著者あとがきに説明があるように「それぞれの哲学者について、専門から少しはずれた立場の執筆者が、自分の問題関心にそくして書くという方針で企画され」ているのが特徴で、そのため本によって執筆者が変わるのです。結果、著者の専門ど真ん中でないからこそ、異常に難解で詳細な専門知識にフォーカスせず、まさに「エッセンス」を解説してもらえるため、自分に合う本を選ぶと非常にわかりやすい哲学入門書となっています。

ちなみにですが、同シリーズ中、私に合っていたなと思ったのは「クリプキ」「カント」「デカルト」「ウィトゲンシュタイン」でした。哲学初心者でも非常にわかりやすく、もう少しいろんな哲学書を読んだ今でも、上記の本が理解のベースになっているような気がします。

 

上記のリストを見て「クリプキ」と「ウィトゲンシュタイン」が混じり込んでいることからお分かりの方もいらっしゃるかと思いますが、わたくし、言語哲学が特に気になる分野なんです。そういうわけで本書をピックアップしたのも、多分に私情を挟んでおります(笑)。そして、こちらの本も幸運なことに「私に合った」本で非常にわかりやすく満足しております。

 

さて。本書の「デイヴィドソン」はフルネームをドナルド・ハーバート・デイヴィドソンといいます。1917年生まれ、本書が刊行された1年前の2003年に亡くなった言語哲学者で、後述のクワインや、上段で紹介した「クリプキ」と並んで20世紀のアメリカ哲学を先導したキー・パーソンの1人とされます。

哲学者の多くは大学在学時から研究対象分野を絞って研究していることが多いイメージがありますが、そういう意味ではデイヴィドソンは異色の哲学者です。大学職員になって以降の1950年代に自学で言語哲学の研究を始めました。ただ、1930年代、大学院時代に哲学者・論理学者である少し年長のウィラード・ヴァン・オーマン・クワインに出会っており、この時点で分析哲学・言語哲学に進む素地はできていたと言えるでしょう。デイヴィドソンの学者としての歩みは本書の「デイヴィドソン小伝」(P111~)に詳しいので、お読みになる方はご参考まで。

 

本書のテーマですが、「そもそも我々が言語と呼んでいるものは何なのか?」「それを使用するコミュニケーションとはどのような出来事なのか」ということを「ある哲学者」=デイヴィドソンの議論に沿いながら考えてみることである、と著者は書きます。

 

多くの哲学初心者にとって難解なのは、哲学という学問が扱う言葉の扱い方そのものなのではないでしょうか?本書の副題も「「言語」なんて存在するのだろうか」という、一般的には「ん?」と疑問に思うようなものが採用されています。多くの普通の人は「え?言語がなくちゃコミュニケーションもできないじゃん、実際にこうして使っているのが言語じゃないの?」という反応になるでしょう。

哲学で議論される「言語」は、日本語や英語といった狭義の「言語」(本書では何箇所かで「「」(カッコ)付きの「言語」」という表現がされています。)であるのか、それとも、コミュニケーション全般を成立させる媒介のようなものすべてを含めた広義の「言語」なのか、その定義によって、そもそもの議論の深度も対象すらも変わってきてしまうのです。

では、本書副題の「言語」とはどちらなのでしょうか?

 

それは・・・。本書をお読みいただくことをオススメします。(←投げた!)

著者の森本氏が指摘するように、デイヴィドソンの思想はとても難解なのです。本書のところどころに本人の手による(と、いっても翻訳ですが)文章が掲載されているのですが、正直言って、森本氏のフォローがなければ何を言っているのかよく分かりません。そのこともあってだと思われますが、既述のように20世紀アメリカの代表的哲学者とされるわりにはデイヴィドソンの仕事(論文集など)は日本語訳されたものが少なく、あったとしても難解で素人には理解不能なものばかり。その中にあって、デイヴィドソンの思想を平易で一般人にも分かりやすく解説した本書は非常に貴重なものと言えるでしょう。

・・・何が言いたいのかと言うと、下手にデイヴィドソンの思想を私のような素人が要約したところで、正確なものになるわけがないと思うのです。本書を読みながら感じたことですが、森本氏の巧みな説明によって一気に「理解できた!」と思っても、その理解に立ってふと自らに湧く疑問に答えようとしても・・・それはできない。例えるなら、暗くなりつつある部屋で読書をしていて、ふと本から目を上げて灯りを見た次の瞬間、すぐに本に目を戻してももう字が見えないみたいな・・・分かります?(←聞くな?)その原因は、私の理解が深くに及んでいないことが大きな要因だと思われるため、この本を足がかりに周辺の本を読んで勉強しようと思います。

 

とはいえ。

全体を通してデイヴィドソンの理論の「雰囲気」めいたものは掴んだような気がしています。それをどう記載して良いかわからなかったのですが、ふと見た帯に書かれた文言こそ彼の思想、少なくとも本書で書かれているデイヴィドソンの考えるコミュニケーション媒介としての「言語」に対する考えを凝縮したものであると感じ、思わず「ここに書いてあるじゃーん!」と叫びそうになったので、その部分を紹介して今回の記事を終了したいと思います。

以下、帯引用

「ことばによって他者を理解するとはどういうことか。解釈の賭を通じて生み出される合意。それを可能にするのは言語能力ではなく生きることへの熟練である。」

難解でありながら、言語、そしてコミュニケーションについて非常に前向きなメッセージをくれる本書、是非お読みください。

スタッフN

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