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2023.03.01

レビュー

図録 興福寺中金堂再建記念特別展 運慶

運慶とは、平安時代の末期から鎌倉時代に活躍した大仏師。仏師として有名なだけでなく、歴史の教科書に登場するほど偉大な人物です。運慶と快慶が造った東大寺の金剛力士像はあまりにも有名ですよね。

貴族好みの温和な表情の仏像が主流だった平安時代から武士の時代へと変化した鎌倉時代。武士好みの力強いダイナミックな仏像が主流になります。それはまさに奈良仏師が得意とする仏像なのです。また、運慶は源頼朝とも深い関係にありました。

2017年に東京国立博物館で開催された同展では、運慶の父・康慶、運慶、運慶の息子たちの作品を3部構成で展示されていました。

円派・院派と奈良仏師

平安時代の後期、大仏師・定朝から仏師は円派・院派・奈良仏師と3つのグループに分かれます。運慶の父である康慶は奈良仏師でした。また、康慶からつながるグループを慶派といいます。

円派と院派は平安時代後期から活躍し、貴族に大変気に入られたグループです。いわゆる花形ですね。一方、奈良仏師は仏像の制作よりは修理が多く、完全に円派と院派の陰に隠れた存在でした。

第一章 運慶を生んだ系譜 康慶から運慶へ

ここでは奈良仏師と康慶、そして運慶の初期の作品が中心になります。

康慶は奈良を中心に活躍していた仏師・康助の弟子とみられています。奈良仏師である康助の後を受け継いだ康慶は、京都の法華王院五重塔の彫像に従事しました。1177年に康慶は法橋という位に就きます。法橋は朝廷が僧侶や仏師に与える位のことです。そして、康慶が法橋に就いたほぼ同時期に康慶の息子であり弟子である運慶が奈良・円成寺に大日如来坐像をつくり、仏師としてデビューを果たします。しかし、20代半ばの運慶のこの作品には運慶独自のスタイルはまだみられませんでした。

円成寺の大日如来坐像( 国宝 )

これまでの仏像はなめらかな曲線とのっぺりした彫りの浅い定朝様式が主流でした。それとは異なり奈良仏師では凹凸のあるはっきりとした仏像が特徴です。康慶や運慶も奈良仏師の特徴を受け継ぎ、そして独自のスタイルを極めるようになります。

康慶も奈良仏師として素晴らしい仏像を制作しており、肉感的な体、しわを上手く表現した衣襞など写実的で凛とした静岡・瑞臨時の地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に活躍する慶派の仏像に通ずるものがあります。

地蔵菩薩坐像(重要文化財 )

 

奈良・興福寺の四天王寺立像(重要文化財)や、青年から高齢の僧侶まで実在した高僧6人の仏像である興福寺の法相六祖坐像(国宝)など、姿や表情が実にリアルな仏像たちです。

奈良仏師の特徴のひとつに玉眼があります。玉眼とは仏像の眼に水晶をはめ込み、まるで生きているような仏像にする技法です。康慶のこれら仏像にも玉眼が使用されています。

康慶作 法相六祖坐像(国宝)のうち3像。左から 伝常騰坐像、伝善珠坐像、伝行賀坐像。一体一体の表情が驚くほどリアルに表現されています。

そんな中、奈良の東大寺と興福寺が平家の軍勢によって焼かれ、多くの仏像が燃えて焼失してしまいました。そこで、東大寺と興福寺の再興でスポットライトがあったのが奈良仏師です円派・院派の陰に隠れていた奈良仏師が活躍するきっかけとなります。

第2章 運慶の彫刻 その独創性

1185年、壇ノ浦の戦いに平家が敗れ滅亡し、源頼朝が鎌倉に幕府を開きます。これまで平家御用達だったのは院派と円派でしたが、頼朝は奈良仏師のほうを好んでいました。平家は頼朝の敵であったため院派や円派を好ましく思わないのは当然かもしれませんね。そのため、奈良仏師の元へ鎌倉幕府から仏像制作の依頼が頻繁にくるようになります。ここから奈良仏師の快進撃がはじまるのです。

運慶は康慶から法眼(法橋よりさらに高い位)を譲り受け、ついに慶派のリーダーになります。そして頼朝に気に入られたこともあり、鎌倉幕府や東国武士に関わる仏像制作が大きな比重を占めるようになります。運慶作の仏像が関東のほうに多く残されているのも、鎌倉幕府からの依頼が多くあったためです。

北条政子の父・北条時政が建てた静岡・願成就院には運慶が手掛けた仏像が5体祀られています。その中でも目を奪われるのが毘沙門天立像(国宝)です。時政の依頼で運慶が造像しました。大きくひねった腰、引き締まった体に若々しい顔つき。これまでの武神将になかったスタイルです。写実的で北を守る毘沙門天のするどい眼差しやたくましさ。運慶の独自のスタイルの幕開けです。

また、運慶は願成就院と似た5体の仏像を神奈川県の浄楽寺でも作成しました。その中の阿弥陀如来坐像および両脇侍立像(重要文化財)の3体はきらびやかでパッと目をひきます。この3体は玉眼ではなく彫眼になっているのが特徴です。江戸時代に修復されたため、とても綺麗な状態で残されています。ハリのある丸めの顔と深く彫られた衣紋などの表現も見事です。

浄楽寺 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像(重要文化財)

不動明王立像と毘沙門天は浄楽寺と願成就院では見比べるとポーズや表情、雰囲気がそれぞれ異なります。このように違いを見つけるのも仏像鑑賞の楽しみのひとつではないでしょうか。

浄楽寺の不動明王立像(重要文化財)

浄楽寺の毘沙門天(重要文化財)

そして運慶の父・康慶が亡くなります。その供養として造られたといわれているのが京都・六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像。運慶と湛慶の合作です。とてもおだやかで凛とした雰囲気と顔つきの地蔵菩薩は、息子や孫に造ってもらった康慶の嬉しさがにじみ出ているかのようですね。

京都・六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像(重要文化財)

 

康慶が亡き後も運慶は精力的に仏像制作をしていきます。海外のオークションに出品され、海外流出を食い止めるため落札したことで有名な真如苑の大日如来坐像(重量要文化財)。獅子に乗ったきらびやかな光得寺の大日如来坐像(重要文化財)。どちらも高く結い上げられた髻とハリのある若々しい顔や厚みのある上半身。運慶の特徴がよく活かされています。

真如苑の大日如来坐像( 重要文化財)       

光得寺の大日如来坐像(重要文化財)

鳥羽天皇の第3女である八条女院の依頼で作成された和歌山・金剛峯寺の八大童子立像(国宝)。八大童子立像は8体のうち6体が運慶作といわれています。ムチムチした体が白い矜羯羅童子、引き締まった体にキリッとした顔の恵光童子など8体それぞれに個性があり表情もすべて異なります。玉眼の使い方が上手く、眼だけでもさまざまな表情があるのが面白いです。運慶展では1体ずつケースにはいっているので360度見られる貴重な機会でした。

八大童子立像 (国宝)

そして、運慶は1203年にこれまでの業績が認められ最高位である法印になり、名実ともにナンバーワンの仏師になります。

1199年、運慶を高く評価していた源頼朝が落馬により急死します。頼朝の供養として湛慶と一緒に制作された愛知・瀧山寺の聖観世音菩薩立像。

運慶指導のもと運慶の息子たち、そして慶派の仏師たちで手掛けた作品で、日本仏像界の真骨頂と評される奈良・興福寺の無著菩薩立像と世親菩薩立像(国宝)。

現存する運慶が最後に造ったとされる仏像、神奈川・光明院の大成徳明王坐像(重要文化財)。作者不明であるものの運慶説が強い重源上人坐像(国宝)など、1223年に運慶は亡くなるまで多くの仏像を造り上げました。

写真:左から愛知・瀧山寺「聖観世音菩薩立像」、奈良・興福寺「無著菩薩立像」と「世親菩薩立像」、神奈川・光明院「大成徳明王坐像」

重源上人坐像(国宝)

 

第3章 運慶風の展開 運慶の息子と周辺の仏師

運慶には6人の息子がおり、全員仏師です。特に湛慶は運慶のあとを継ぎ、慶派のリーダーとして多くの作品を手掛けました。運慶展では湛慶と康弁の像を公開しましたが、なかには「これは運慶の作品ではないか」と思われているものもあります。

京都・六波羅密寺に、湛慶作の運慶坐像と湛慶坐像では、運慶坐像は貫禄のある落ち着いた雰囲気がでており、湛慶坐像は真面目で神経質な感じが伝わってきます。

湛慶は3歳から運慶のそばで運慶の仕事ぶりを見て育ちましたが、湛慶の作品は運慶よりどちらかといえば快慶の作品に近く、美しい顔立ちで線的なのが特徴です。

動物を愛する明慶上人のために湛慶が制作した京都・高山寺の子犬(重要文化財)は、愛らしい木彫りで、明慶上人も大変大事にされていたといわれています。

子犬(重要文化財)

康弁の奈良・興福寺の龍燈鬼立像(国宝)は四天王像に踏まれている邪鬼にスポットライトを当てた作品です。にらみを利かせた表情、どっしりとした体は、運慶の作品を彷彿とさせる迫力ある仕上がりです。

左ページに掲載されているのが康弁作の龍燈鬼立像。右ページは天燈鬼立像。2躯1組で国宝指定されています。

「十二神将」は湛慶率いる慶派の仏師によって造られたといわれています。力強さと繊細さの両方が合わさった作品です。5体が東京国立博物館、7体は静嘉堂文庫美術館に所蔵されており、12体が一緒に展示されるのは42年ぶりのことでした。

このように運慶の亡きあとも湛慶を中心に慶派は活躍をし、多くの作品を残しています。

 

運慶は多くの仏像を制作したといわれていますが、運慶作と認められているものは現存で31体しかありません。最大規模の運慶展では31体のうち22体が展示されました。とても貴重な運慶の作品を見ることができる「図録 興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」で是非、独創的で才能溢れる運慶の世界をのぞいてみませんか。

 

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