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2026.06.19

レビュー

図録「アンドリュー・ワイエス 創造への道程(みち)」

はじめに

 

アメリカ絵画を代表する画家のひとり、アンドリュー・ワイエス。静かな田園風景や人物を描いた作品は、没後もなお多くの人を魅了し続けています。

今年は没後日本初となる回顧展も開催されていますね。

この記事では、アンドリュー・ワイエスという画家についてわかりやすく解説します。

それでは、2008年にBunkamuraザ・ミュージアムで開催された展覧会『アンドリュー・ワイエス 創造への道程』の公式図録をガイド役に、アンドリュー・ワイエスの創造の世界をのぞいてみましょう。

 


 

アンドリュー・ワイエスとは?

 

Andrew Wyeth’s PROFILE

生涯:1917.7.12‐2009.1.16

出身:アメリカ、ペンシルヴェニア州チャッズ・フォード

本名:アンドリュー・ニューウェル・ワイエス

画風:アメリカン・リアリズム(テンペラ画、水彩画、ドライブラッシュなど)

代表作:《クリスティーナの世界》(1948)、《ヘルガ》(1979)など

アメリカの画家。精密なリアリズムによる人物画、風景画で広く人気を博している。初めは水彩を描いたが、1948年のテンペラ画《クリスティーナの世界》で一躍注目される。一貫してテンペラやドライブラッシュによる徹底した写実を追求しているが、アメリカの片田舎を舞台に繰り広げられる人間の生と死のドラマがワイエスのテーマである。

『宝島』や『ロビンソン・クルーソー』の挿絵を手がけた職業画家 ニューウェル・コンヴァース・ワイエス(通称N.C.ワイエス)を父にもつワイエスは、ペンシルヴェニア州で5人兄弟の末っ子として生まれます。幼少期から自己流で水彩や鉛筆を用いて自由な空想の世界を表現していました。

15歳の頃から父に素描や水彩の基礎訓練を受け、隣人の夫婦や農場など身近な題材を描くようになります。1937年、20歳の時に開催した個展で作品をすべて完売するという、鮮烈なデビューを果たしました。

順風満帆ともいえる日々。しかし、28歳の時に悲劇が訪れます。父親と3歳の甥が乗った車が列車と衝突事故を起こし、2人とも命を落としてしまったのです。さらに父の死から5年後、今度はワイエス自身が肺疾患を患い、片方の肺の半分を切除。手術中に一度心臓が停止し、ワイエスは生死の境を彷徨ったといいます。

こうした過酷な経験を経て、ワイエスの作品から明るい色彩が失われ、茶色や灰色を中心としたストイックな色調へと変化していきます。また、描くべき主題をより深く探求し始めたのもこの時期からで、風景の奥に潜む「世の無常」や「儚さ」といった独自の表現を追求するようになっていくのです。

 


 

ワイエスが描いた2つの風景

 

ワイエスは生涯のほぼすべての時期を、故郷ペンシルヴェニア州と夏を過ごすメイン州を渡り鳥のように行き来しながら、絵を描きました。

一見すると何の変哲もない田舎の風景。しかしワイエスは、そうした場所にこそ人の営みや時間の積み重ねを見出しました。日常の何気ない1コマや、見過ごしてしまいそうな部屋の片隅をありのままに描いた作品は、多くの人々の心を捉えています。その静かで味わい深い情景は、アメリカのみならず日本でも多くのファンを魅了してきました。

 

生まれ故郷―ペンシルヴェニア州チャッズ・フォード

 

アメリカ合衆国東部にあるペンシルヴェニア州チャッズ・フォードは緑の多い自然の豊かなところです。ワイエスは91歳で亡くなるまでこの地に住み続け、主に冬の間に制作を行っていました。ここには土のにおいを感じさせる畑や丘、納屋、冬の草地があり、ワイエスはこの土地に根差した生活の気配を描きました。

作品でもお馴染みの、川沿いの「粉引き小屋」と呼ばれる石造りの建物は、妻ベッツィが買い取り、外壁を残して内部を改造・増築して住居としたものです。ワイエスに水彩の手ほどきをした父N.C.ワイエスのアトリエも、ワイエスの幼年時代の思い出がぎっしり詰まったままのかたちで残されています。

 

夏の住処―メイン州、海岸地方

ニューイングランド地方の最北に位置するメイン州は、入り組んだ海岸線が美しい、夏の避暑地として人気のある場所です。ロブスター漁やブルーベリーの収穫が盛んなこの地にワイエスは2つの島を所有し、毎年初夏から晩秋にかけて約5ヶ月間滞在していました。

のちに妻となるベッツィを介して、メイン州クッシングのオルソン家を初めて訪れたのは1939年、ワイエスが22歳の時です。この家のたたずまいやそこに住むクリスティーナとアルヴァロの姉弟に強く惹かれ、以来30年にわたって彼らや建物の風景を描き続けました。

 


 

テンペラが生む、静かな緊張感

 

ワイエスを語るうえで外せないのが、テンペラ技法です。彼は水彩とテンペラを中心に制作した画家として知られています。

テンペラとは、顔料を卵黄などの水と混ざる媒体で練って使う絵画技法の総称で、油彩のように厚く塗り重ねるのではなく、薄い層を細やかに重ねながら画面を作っていくのが特徴です。その歴史は古代エジプトまで遡るといわれ、ヨーロッパでは油彩が広まる15世紀以前の主要な絵画技法の1つでした。

制作の手順は、油彩とはかなり異なります。まず板(パネル)に石膏で下地を作り、その上に半透明の絵の具を薄く重ねていきます。乾きが非常に早いため、ぼかしや厚塗りがしにくく、代わりに細い筆で線を交差させながら微細な層を積み上げていく「ハッチング」と呼ばれる技法が多く使われます。

完成した画面は、引き締まった独特の硬質感をもち、油彩に比べて、経年による黄変や暗色化が起こりにくいのも特徴です。数百年前の作品が今もなお鮮明な色彩を保っていることが多いのは、この技法の強さでもあります。

ワイエスは21歳のとき、義兄であり父の弟子、ピーター・ハードからこの技法を学びました。当時、多くの画家が油彩を用いるなか、油絵の具の重厚な質感になじめなかったワイエスにとって、テンペラによる軽やかで乾いた質感は理想的な表現手段だったのです。

ワイエスのテンペラ画を見ることがあったら、画面のどこかに細かい線が幾重にも交差している部分を探してみてください。草の1本1本、布のしわ、樹皮の質感……。そうした細部に目を近づけてみると、積み重ねられた線の痕跡が見えてきます。そこには、ワイエスが作品に注いだ膨大な時間の軌跡が刻まれています。

 


 

名作《クリスティーナの世界》はこうして生まれた

 

1948年に制作された《クリスティーナの世界》は、ワイエスの名声を決定づけた代表作であり、20世紀アメリカ絵画を象徴する作品の1つです。

当時クリスティーナは55歳。進行性の疾患により歩行が困難でしたが、強い自立心と誇りを持って生きていました。ワイエスはそんな彼女を深く敬愛していたといいます。

さて、もうお気づきの方もいるかもしれませんが、ワイエスが好んだテンペラという技法は、時間をかけて対象と向き合い、思索を深めながら取り組む技法です。描き直しが難しいため、多くの試作・習作を重ねたうえで取り掛かる必要があります。

もちろん《クリスティーナの世界》も例外ではなく、数多くの習作が残されています。

草原を這いながら進むクリスティーナの姿を見たワイエスは、鉛筆で構想を描き、人物の上半身や下半身、指の開き方までさまざまに変えながら繰り返し描写を重ねました。

これらの習作と完成したテンペラ画を見比べてみると、習作には存在していたオルソン・ハウス周辺の建物や木々が消されていたり、母屋と納屋の間隔が実際より広げられていたりすることに気づきます。

そこから見えてくるのは、ワイエスが決して目の前の風景をそのまま写していたわけではないという事実です。彼は自らの感情や作品のテーマに合わせて風景を「再構成」し、より純度の高い表現へと昇華していたのです。

 


 

この図録でしか見えない「創造の道程」

 

水彩画家として出発したワイエスは、テンペラ画だけでなく素描や水彩、ドライブラッシュも数多く制作しました。

多くの場合、鉛筆やペンなどで素描を描き、次に水彩を描き、さらにドライブラッシュ(水気をしぼった筆で描く技法)でより詳細に描き、最後にテンペラに取り掛かります。もちろん作品によっては、テンペラに至らず、水彩やドライブラッシュの段階で完成作となるものもあります。

こうした素描や水彩には、完成されたテンペラ画に比べて、画家の感情の動きや対象への関心がより直接的に表れています。制作過程で生まれた作品を比較することで、画家の関心がどのように変化し、それに伴って表現がどのように深化していったのか(=創造の道程)をたどることができるのです。

図録『アンドリュー・ワイエス 創造への道程(みち)』は、自画像作品をはじめ、《クリスティーナの世界》やオルソン家を描いた作品群を収録した「メイン州」、故郷の風景や人々を描いた「ペンシルヴェニア州」の3部構成となっています。

完成作品だけでは見えてこない、試行錯誤や発見の軌跡。素描や水彩から完成作に至るまでの創造の過程をたどることで、ワイエスという画家の魅力をより深く味わうことができるでしょう。

ひたむきに制作を続けた1人の画家、アンドリュー・ワイエス。その創造の現場に触れられる贅沢な1冊を、ぜひ本棚に迎えてみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!