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2026.09.09

読みもの

藤田嗣治

藤田嗣治は、最初から「藤田嗣治」だったわけではない。

おかっぱ頭と丸メガネがトレードマーク。”パリの寵児”と呼ばれる藤田嗣治。

しかし、画学生時代からすでに順風満帆な道を歩んでいたわけではありません。

藤田の才能は、芸術の都・パリで大きく花開きました。

2026年は藤田の生誕140周年にあたり、国内外であらためて関心が高まっています。

本記事では、藤田が「自分だけの絵」を見つけるまでを振り返りながら、当店で取り扱っている図録と合わせてその魅力をご紹介します。


パリに最も愛された日本人画家 藤田嗣治

—美術家は物体を深く凝視し、的確な線を捉えなければならない。—

Tsuguharu Foujita’s PROFILE

生涯:1886.11.27〜1968.1.29(81歳没)
出身:東京府牛込区新小川町(現 東京都新宿区)
洗礼名:レオナール(Léonard)/通称 レオナール・フジタ
活動拠点:日本、フランス(パリ)
代表作:《ジュイ布のある裸婦》(1922)、《五人の裸婦》(1923)、《秋田の行事》(1937)、《アッツ島玉砕》(1943)、《カフェ》(1949)など

東京牛込に生まれ、スイス・チューリヒに没す。東京美術学校(現 東京藝術大学)卒業後、26歳で単身渡仏。猫と乳白色の肌を持つ裸婦を得意のモチーフとして、1920年代の「狂乱の時代」エコール・ド・パリを代表する画家となる。第二次世界大戦後、69歳でフランスに帰化。72歳でカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと称した。


フランス・パリへの憧れ

藤田嗣治は1886年(明治19)東京に生まれ、陸軍軍医の子として育ちました。

1909年《父の像》東京美術学校在学中に描く

中学生の頃、軍人になってほしいという父の期待をよそに、画家になることを決意。芸術の都・パリで画家として成功することを夢見て、17歳の時から中学校の夜間部でフランス語を習い始めるなど、準備を進めていました。

中学卒業後は、父の知人であった森鴎外の助言もあり留学を延期、東京美術学校(現 東京藝術大学)西洋画科で絵を本格的に学び始めました。

しかし、窮屈な指導にどうしても馴染めず、フランスに対する憧れは日ごとに高まるばかり。

卒業後しばらくして、1913年(大正2)6月、26歳の藤田は憧れの国フランスへと単身で旅立ちました。

1910年 《自画像》23歳のとき


絵画とはかくも自由なものか

1914年 《キュビスム風静物》パリに到着した翌年の作品。パリではピカソ、ブラックらが推進したキュビスムが大きな影響力を持っていた

1913年夏、藤田はついにパリの地に足を踏み入れ、モンパルナスに住むようになります。そこで待っていたのはピカソやモディリアーニといった若い芸術家たち、そして彼らの生み出す前衛的な作品との出会いでした。

当時、20世紀初頭のパリでは、ルーヴル美術館などで古くから積み重ねられた伝統や歴史に囲まれ、画廊に行けば最先端の表現に触れることができました。

また、参加費さえ払えば、誰もが作品を自由に発表できる場もありました。パリに身を置き、腕を磨くことで、自分もまた「発信者」の一人になれるのではないか。そんな思いを胸に世界中から若い芸術家たちがパリに集まっていました。

後に「エコール・ド・パリ(パリ派)」と総称されることとなる彼らは、モンパルナスの集合住宅兼アトリエやカフェで日夜芸術談義に明け暮れ、互いに切磋琢磨しながら、それぞれ自身の「表現」を磨いていきます。

ルーツも作風も異なる彼らの「新しい表現」に藤田は圧倒されつつも、自らもその狂騒の真っ只中に飛び込んでいきました。


「自分だけの絵」を求めて

自分はどのような絵を描いていこうか。

誰かの真似ではない、「自分だけの絵」とは一体どのようなものなんだろう。ルソーの足跡をたどるようにパリの風景を描き、ピカソに倣ったキュビスム風の絵を描きながら、藤田は必死に考え、模索し始めました。

試行錯誤を重ねるうちに、「日本人である自分」にしか生み出せない表現を追求するようになった藤田は、仏像や浮世絵に着想を得て、東洋的なモチーフや線描の技法を取り入れた独自の芸術世界を築いていきました。

1917年《鶴》

 

1918年《目隠し遊び》

この取り組みは実を結び、1917年には画廊と契約、水彩画の個展を開催するまでに至りました。水彩という表現手段を用いたことで、浮世絵にも通じる紙の質感や線の美しさが引き立ち、藤田の繊細で独創的な表現を支える重要な要素となったのです。ちなみに、この初個展にはピカソも訪れ、3時間も絵をみていたとか。

しかし、ヨーロッパで画家として認められるためには、やはり油彩画でなければいけない。そこで、藤田は次のステップとして、水彩画の線と肌を油彩画に移し替える作業に取り掛かります。

1919年、藤田は初めて公募展「サロン・ドートンヌ」に作品を出品します。出品した6点はすべて入選し、その名をパリ画壇に広く知られるきっかけとなりました。ただ、この段階ではまだ風景画や宗教画など1910年代のスタイルを継続しており、「自分だけの絵」と呼べる表現にはたどり着いていませんでした。

そして、それが一気に飛躍を迎えたのが、第一次世界大戦が終わり、パリに落ち着きが戻ってきた1921年です。


乳白色に命を吹き込む墨の線

長期にわたる試行錯誤の末、藤田はついに「自分だけの絵」を描くための技法、「乳白色の下地」と極細の線描を確立しました。

面相筆という極細の毛筆で引かれた繊細な墨の線の美しさは、藤田の画業全体を特徴づけるものです。そしてこの線のために編み出された新技法こそ、いわゆる「乳白色の下地」でした。

1923年《裸婦像 長い髪のユキ》モデルは20年代半ばより共に暮らしたユキ(リュシー・バドゥー)

藤田は絵の輪郭線を描く際に、ペンや鉛筆を選ばず、日本画で使う細い面相筆などの日本の毛筆と墨を使いました。藤田だからこそ描ける、繊細でやわらかな線。しかし、目の粗いカンヴァスには細い線を滑らかに引くことは困難でした。そこでポイントとなったのが、あの滑らかな白い下地だったのです。

タルク(滑石粉)などを用いたとされる、つるりとした独特の下地は、墨による極細の線を滑らかに引くことを可能にしました。藤田は支持体にもこだわり、自らカンヴァスを手作りしています。(なお、この下地については長らく秘法とみなされており、現在も研究が進められています。)

また、その透明感あふれる乳白色を生かすために使う色数は減らされ、モノトーンに近い画面になりました。


フジタ、パリの寵児になる

ついに独自のスタイルを編み出した藤田は、西洋画の伝統的モチーフである裸婦像に挑戦しました。

「乳白色の下地」を生かして描かれた、まるで磁器のように滑らかで、透明感のある女性の肌。そして、その肌を縁取る極細の「墨の線」。

1923年《五人の裸婦》初めて裸婦の群像表現を試みた作品

1921年、藤田は出来上がった裸婦像を、サロン・ドートンヌに出品。すぐに買い手がつき、翌年以降、パリのさまざまなサロンに立て続けに裸婦像を出し、大きな評判と名声を得ることになります。

絵の具を厚く塗ったり、荒々しい色彩と筆致で描かれた絵が流行していた中で、選び抜かれた線で縁取られ、白く滑らかな肌を持つ藤田の絵はひときわ目を引いたのでしょう。

第一次世界大戦後のパリで新たな芸術表現が模索される中、藤田の裸婦はその白さと独特の質感によって、ひときわ強い印象を与えました。西洋の伝統的な裸婦像に、東洋的な線の美しさを重ね合わせた藤田の表現は大きな注目を集め、彼を一躍パリの寵児へと飛躍させるきっかけとなったのです。


COLUMN フジタと猫

1940年《猫》ダイナミックに描かれた、じゃれ合う14匹のネコたち

乳白色の肌の裸婦像と並び藤田のトレードマーク的な絵画のモチーフである、ネコ。

藤田の絵で、猫は単独で描かれることもありますが、女性の傍ら、あるいは自画像とともに作品のあちこちに登場しています。

藤田の絵画における線は乳白色の肌の、裸体の輪郭を縁取ることで称賛されましたが、その線は猫を描く上でも存分に発揮されました。

顎をあげて目だけはこちらを覗き込むようにみている猫。その目の形の輪郭、あるいは鼻から口にかけての猫独特の形、そして顔から伸びているヒゲ。

藤田の得意とする線で描かれた猫はとても魅力的なんです。

個人的な推し猫は、1929年に描かれた40代初頭の藤田の《自画像》にいる猫です!ぜひ、あなたの推し猫を探してみてください。

1929年《自画像》ネコの表情に注目!


フジタの物語は、ここでは終わらない!

パリで「乳白色の裸婦」を生み出し、世界的な名声を手にした藤田。しかし、彼の人生と画業は、ここからさらに波乱万丈のものとなっていきます。

第二次世界大戦の時代を迎えると、藤田は1940年、戦火の広がるパリを離れて日本へ戻り、陸軍美術協会の理事長として戦争記録画の制作に携わります。戦地を取材して描かれた作品もあれば、想像によって構成された大作もあり、それらは当時の社会において大きな役割を担いました。

1943年《アッツ島玉砕》

代表作である《アッツ島玉砕》は、1943年に制作された大作で、アッツ島守備隊の戦闘を題材にした作品です。実際に目にしたはずのない激戦の場面を至近距離から克明に描き、戦争の悲惨さや極限状態に置かれた人々の姿を伝える一枚として、現在も多くの議論と研究の対象となっています(東京国立近代美術館蔵)。


批判、そして再びフランスへ レオナール・フジタとして

終戦後、藤田の戦争画制作をめぐって批判が起こり、GHQからの聴取を受けるなど、戦争協力をめぐる議論の対象となりました。藤田自身は画家として国家の求めに応じたという立場を示していましたが、戦後の日本美術界との距離を感じるようになります。

そして1949年3月、藤田は日本を発ちました。ニューヨークに約1年滞在したのち、1950年2月、イギリスを経てフランスの地を踏みます。以後、二度と日本に戻ることはありませんでした。

フランスへ戻った藤田は、1955年にフランス国籍を取得しました。その後、1959年10月14日には、妻・君代とともにランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。洗礼名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんだ「レオナール」。以後、藤田はレオナール・フジタとして生きる道を選びました。

1959年《十字架降架》

晩年は宗教画への関心を深め、1966年、フランス北東部ランスに「フジタ礼拝堂」として知られるノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)が完成します。藤田は建物の構想から内部の装飾までを担い、堂内四面を埋めるフレスコ壁画は、80歳の夏にわずか3か月で描き上げたものでした。ステンドグラスもまた、藤田の下絵をもとにランスの工房で12点が制作されています。建築全体がひとつの芸術作品となったこの場所は、藤田がたどり着いた晩年の集大成ともいえます。


おわりに

1968年1月29日、藤田はスイス・チューリッヒでその生涯を閉じました。遺体はいったんフランスの自宅があった村の教会墓地に葬られましたが、「自分が手がけた礼拝堂で眠りたい」という遺志にもとづき、2003年、ランスのフジタ礼拝堂へ改葬されます。現在は妻・君代とともに、自らが描いた壁画に囲まれて眠っています。

華やかなパリ時代から、戦争による苦悩、そしてフランスで迎えた晩年まで。「私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。」そう語った藤田嗣治の歩みは、激動の20世紀を生き抜いた一人の芸術家の軌跡そのものだったのです。

生誕140年を迎えたいま、日本とフランス、二つの故郷の間で揺れながら独自の表現を追い求めた藤田の軌跡は、時を超えて私たちの心に静かな問いを残し続けています。

作品をもっとじっくりみてみたい。そんな方には図録がおすすめです。実物では見逃してしまう細い線や、乳白色の肌の質感も、作品を並べてみることでより鮮明に感じます。

ぜひ一冊、手元に置いて藤田の世界を楽しんでみてください!

 

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